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村人A

さく、と小気味よい音がする。うすい皮を歯で破った瞬間あまい果汁が広がり、思わず声が漏れる。

「美味しい」

「ぶどう? 僕にも」

「冷蔵庫」

もうひと粒、枝からもぎり口に入れる。鼻から抜ける芳醇な香りが多幸感をもたらす。

「珍しいね。果物」

片手で器用に椅子を引いて夫が正面に腰かける。私よりひと回りは大きな手が、割れ物に触れるようにぶどうを持ち上げる。たしかに、子どもたちが家を出てからあまり食卓にのぼらないかもしれない。

「食べたくなって」

買うつもりはなかった。昨晩仕事終わりに夕飯の買い出しに出たときたまたま見つけて、スーパーのライトに照らされたそれがとても美味しそうに見えたのだ。買うつもりは、なかったのに。

「気づいたらカゴの中にね……」

「気づいたらか……」

それは仕方ないね、と言いながら長い指を窮屈そうに曲げてみっちり実がついているところからひと粒もぎ取る。昔から、果物が好きなのは私より彼の方だ。

「んまっ」

眼鏡の奥で少し色素のうすい茶色の眼がきらきらしている。彼の方がふたつ上のはずだが、こういうときは子どもみたいだ。お気に召したようで次々もいでは黙々と口に運んでいる。ハムスターが頬袋に詰め込む姿に似ている。

「お気に召して何より」

私が枝だけになった皿を手に立ち上がろうとすると、彼が皿を軽く押さえ、あげる、と言ってぶどうをいくつか置いてくれる。

「いいの?」

「いいよ。美味しいからあげる」

ありがとう、と言うとはにかんだように笑う。その笑顔は学生時代から変わっていない。

私が彼と出逢ったのは大学生のときだ。ひとつ上の学年で、一緒のゼミで同じ分野を研究していてよく話すようになった。落ち着いた人だな、と思っていたらある日の実験中にこっそり「僕ね、留年してるんだ」と教えてくれた。何でも、通学中に事故に遭いしばらく意識がなかったらしい。怪我が治ってからもしばらく入院していて丸々一年経ってしまったそうだ。轢かれそうになった他の人を庇って肋がいくつかダメになったらしく、彼の肋はいくつか彼のものではないし、手術の痕が残っている。彼が庇ったお陰で他の人は軽傷だったという。私にそれを話してくれる間、彼は終始穏やかだった。私は、その傷痕が好きだ。

私がじっと彼の胸許を見つめると、ぶどうを見つめていると勘違いした彼がもっとぶどうをくれようとするので丁重にお断りした。彼は、分け与えることに抵抗がない人だ。そういうところが眩しくて、彼の中で一等好きだ。

「傷痕……そろそろ痛む?」

寒くなると痛むことがある、と言っていたことを思い出す。以前触らせてもらった傷痕は他の皮膚より少し凹凸があり少し桃色だった。傷痕に沿ってそっとなぞったら、身をよじらせてはは、と笑っていた。

「今年はまだ。でもそろそろかなぁ」

彼は服の上からそっと傷痕を押さえる。何だか、祈りを捧げている人みたいだ。彼の痛みが少しでも癒えればいいのに、と思う。

「今年ははやくからあったかくしよう。ハーブティー淹れてくる」

彼の分も皿を回収し、キッチンへ立つ。後ろから「カモミールがいー」という、少し間のびした声が追ってくる。カモミールティーを淹れるまでもなく眠ってしまいそうな声だ。

電動ポットに水をセットし、沸く間にマグカップを用意する。もう茶葉の残りが少ない。買い足しておかないと。しばらくして、シュウシュウと音を立てて沸いたお湯をマグカップに注ぐ。こぽこぽという音は好きな音のひとつだ。茶葉があたためられ、香りが立ってくる。

母の影響でアメコミ原作のアニメをよく観ていて、幼いころはヒーローになりたかった。困っている人を助けて、大切な人を守れる人に。大人になった今、囚われの誰かを救うことも世界を救うこともなく言ってしまえば村人Aだが、これはこれでいい人生だ。

村人Aの人生を誇る。


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