スピリットに融合すると・地球人の擬態をとく・遺言感覚の核心

自分の感覚やものの見方がスピリット(霊的存在としての自己)に融合していくと、二元や二極、個々の分離といった「錯覚」がどうにもリアルでなくなってくる。
今までは、そうした観念は錯覚だと理解していても「ここではそういう前提ね!」ということで、自分もその「ごっこ遊び」の一員として経験に参加できていたのだが、もはやそこまで自分をだませなくなってしまうのだ。

しかも、ただの楽しい遊びだったら「これは遊びの中で合意しているだけの前提でしょ」なんて種明かしをすることは野暮に違いないが、いかんせん、この錯覚は「苦しみ」を生み出している。
地球の体験上合意している観念を「ただそう信じただけで、真実ではない」と思い出すことは、あらゆる痛み・苦しみからの解放なのだ。


スピリットの観点になると自然と起きてしまう変化

スピリットの自然な(本来の)状態に融合するという動きは、今に始まったことではなく、これまでもずっとじょじょに起きていたので、私の記事では様々な表現でその様子を語ってきた。当noteでも、noteを使う前はブログ記事でもその内容をシェアしていた。
変化に伴う「日常に起きてくる」現象は人それぞれ色々あって、地球上のこれまで興味を持てた活動に興味が持てなくなる、という影響が私の場合は多くあった。これは興味があったものに興味がなくなるというだけで、以前とは異なる別の興味を持って今は生きているわけだが。

たとえば映画・小説等あらゆるフィクションに興味がなくなる現象がそうだ(これは特に昔の私がそれらを好きだったので例としてよく挙げている)。
理由のひとつは、人間の心を揺さぶる様々な観念に共感しなくなるためで、中にはそこを狙いとしていない普遍的な内容の創作作品もまれにある。そういうものなら今でも面白く感じられる。
理由のもうひとつは、作り手の観念が、作品からあまりにも伝わってくるため。ひとつめの理由と結局繋がっているのだが、それらの観念に自分が全く共鳴していないと作品そのものへの興味が薄れざるをえないようだ。

この点で、余計な味付けがされていないドキュメンタリーやノンフィクションの方が楽しめるようになってしまった。それでも制作者やディレクター、書き手などの想念が入りすぎていることがあるのだが、少なくとも出演している人や登場人物のそのままの姿を垣間見ることができるので、そこが興味深さに繋がる。

そう、人間の営みそのままを見ることは今でも面白い。
地球体験そのもの、人生そのものがスピリットの視点からは「フィクション(作品の世界)」と言えるので、実人生がすでに作品体験・鑑賞なのだ。
こういう視点の移動、次元の移動を考えてもらうと、「フィクション世界の中で生まれる、そのまたフィクション」という私の説明している構造を理解してもらえるだろう。

一方で、イマジネーションによってこそ、スピリット世界での経験の一部を見事に描写することができる。創作活動はスピリットの世界を「表現する」手段でもあるのだ。
つまり、意識の中の「どの部分から引き出した作品を作るか」で内容が変わってくるということだ。

ほかにも「以前は好きだったがもうどうしても興味が湧かない」「興味を奮い起こして無理にやっても結局面白くはない」という分野・活動が私には次々と生じていった。
それらのいくつかは「過去の自分なら興味があったはずという未練」でわざわざ挑戦の余地を残していたが、今年に入って、もうさすがに要らないと心の上で終了させる流れとなった。
これは使っていないし、もう好きでもないのになんとなく取っておいた物の破棄に似ている。

旧自己が抱いていたイメージをずいぶん長く引っ張ってきたものだと、苦笑する気持ちにもなったが、そんな風に「地球の観念の合意に参加していた頃の自分」を残す思考をしていたのは、そこを完全になくすと、より一層この地球に心を向けられなくなると思っていたからだ。

地球人になりすました擬態をとく

それは「地球人になりすました擬態を保つため」と言ってもよかった。
一応伝えておくと、私は様々な地球上の合意の観念を自分も実際に採用してそのまま信じていた時期があったので、多くの人がなぜ、どうして、どんな感情になるか、どんな反応を示すかといった体験を理解している。
「まったく地球人のフィーリングがわからないけど、真似だけしている」という擬態ではなく、自分も経験したのでわかるという理解を伴った上での、擬態だという意味だ。

けれども、もはやそれら(地球上の多くの人が採用している)観念を信じてはいない、同じ気持ちになってはいないという状態になってから長年が経過しており、完全に本心そのままで生きていると、周囲の人々と話がかみ合わないので最低限の擬態をしていたのだ。

それは自分を偽るというやり方ではなく、極力本音を伝えるが、TPOを考えたり相手の立場を考えたりして発言を選ぶ、行動を選ぶという形だった。
「私はそう思わないよ」「それには同意しないよ」という際も、相手の観念に沿った言葉で説明をするといった具合だ。

いつも「架け橋」ということを意識していて、相手の信じているシステムを否定しないまま、こちらの意見を伝えるということをしてきたのだ。

それが、そろそろその最低限の擬態もとく時だ、というアラームが鳴った。

時代は、少なくとも私の人生体験の中での時代は、移り変わろうとしている。
「地球人を装ってる場合じゃない」という風にも言えるし、「ようやく擬態を完全にといてもいいんだ!」という風にも言える。

こうなると人生全般、表立った活動に対しても、以下のような変化が出てくる。

道筋を残して、より特化した並行現実の世界へ

ここから先は

1,355字

¥ 800

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?