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コルトレーンの囁き Vol.9

『逆らえない真実』


「 会いたかった…どうして僕を避けるの? 」 

ユウリの腕に包まれながら全身の力が抜けていく。このままユウリの気持ちを受け入れていいのかどうか、ヨーコは冷静な判断ができないでいた。でも既にこのドアを開けてしまった。もう引き返すことはできない。包まれる腕の中で抗えない気持ちがヨーコの心とからだを溶かしていく。

その時、ヨーコの脳裏に一瞬ミサエの苦悩の表情が浮かんだ。


「 誰も不幸になってはいけないのよ 」

ヨーコはぎりぎりの心でその想いを伝えた。

「 誰も不幸になんかならないよ。僕はヨーコといれば、それだけで幸せなんだ。ヨーコといるときだけが、僕は自分に素直になれる。本当の自分でいられるんだ。こんな風に思ったことは今まで一度もなかった。ヨーコのおかけで生きてるって実感できたんだよ 」


「 ユウリ…… 」


二人の視線が熱く絡みつく。真剣な眼差しのユウリの瞳はヨーコの心を強く捉えて離さない。もうそれ以上、何も疑う余地はなかった。そこにあるのは真実の愛だけだった。


欲動の光に火がつく。もう誰にも止められない二人だけの世界に落ちてゆく。それはもしかすると誰かを不幸にするかもしれない。誰かの悲しみの上に成り立つことかもしれない。それでも、今の二人の衝動を止めることはもう誰にもできないのだった。


引き寄せ合う唇を重ねると、ヨーコはこれまで経験したことのない解放感と安心感に包まれた。愛する人に巡り逢えたこと、こうして愛を確かめ合えることの奇跡を震える心で噛み締める。これまで囚われていたユウリとの年の差や過去への拘りなど、今や何一つ二人の気持ちを抑える理由にはなり得ないのだった。

ユウリに出会ってから静かに育ててきた揺るぎない想いは、幾重にも重なる心のフィルターに濾過され、純度の高い結晶と化した。それは今、一粒の美しい喜びの涙となってヨーコの頬に流れて落ちた。

ここに存在するのは愛し合う男と女、ただそれだけだった。二人の感情を抑える必要もなく、否定する理由などどこにもない。過去の消せない記憶や、やり直しのきかない人生と同じように、ただ受け入れるしかない、逆らえない真実だった。


ヨーコの願いはたった一つ。「 素直になりたい 」ただそれだけだった。


ユウリは募る想いの丈を伝えたくて、大切な壊れ物に触れるように優しくヨーコを抱いた。その肌はシルクのようになめらかで、指に吸い付くようにやわらかく、あたたかかった。ヨーコは聖母のような圧倒的な愛でユウリを受け入れた。それはまるで穏やかな海の波間にたゆたうような、大空に浮かぶ綿雲に包まれているような、果てしなく大きな力に守られている感覚だった。このままでいい、ありのままの自分でいいと思わせてくれる、一方的な無償の深い愛情を感じた。

この愛に、自分は何を返すことができるだろう。この優しさにどう応えればいいのだろう。自分の小ささが恥ずかしい。ヨーコを悲しませたくない。絶対に不幸になんかしない。この気持ちをどう伝えればいいのだろう。一体どうすればこのかけがえのない存在を幸せにできるのだろう……

ユウリはありのままの自分の存在全てを包んでくれるその大きな愛に震えながら、果てなき思いに逡巡するのだった。


決して、誰も不幸になんてならない。


その時ユウリは確信した。そしてそれは初めて自分の中に芽生える自信だった。

大切な人のために唯一無二の音を奏でるように、ユウリの指がヨーコのからだを優しく丁寧に辿ってゆく。長く艶やかな髪に滑り込ませた指が、首筋から肩へと流れるとその跡を慈しむようなキスが追いかけてくる。ヨーコは感覚の全てを研ぎ澄ませてその想いに応えた。頭の中を空っぽにして、ユウリの愛に集中する。幾度となく押し寄せる漣はこれまで体験したことのない歓喜の調べをヨーコに聴かせてくれるのだった。


もっと深く…… 深海の底へと潜っていく。二人ははぐれないようにお互いの身体をしっかりと抱きしめる。そこは誰もいない、何も聞こえない場所。二人の鼓動だけがお互いの肌を伝って響き合う神聖な世界へと果てしなく落ちていった。

やがてたどり着いた場所には無数の星屑が煌めいていた。小さな光の粒たちは少しずつ引き寄せあって一つの塊へと集約されていった。心とからだが重なり合い、自分の肌なのか相手の肌なのか分からない感覚に陶酔してゆく。一つに溶け合った二人は、もう二度と見失うことのない眩い光の頂へと昇り詰めていった。

尊い光の集まる約束の場所。それは二人がずっと追い求めてきた、無防備な魂をさらけ出せる本当の自分の居場所だった。こうして一つになることをどれほど待ち焦がれていただろう。こうなることは必然だった。ここはずっと以前から定められていた約束の場所なのだとお互い認めざるを得ないのだった。

もうなにも迷わない。真っ直ぐに進んでいける。二人はお互いの愛情を全身で受け止め合い、これまでの人生でずっと探し続けていた答えをやっと見つけることができた安堵感に満たされていた。

微睡みながら、お互いのぬくもりを肌に感じながら、生きている喜びを実感する。こんなにも無防備な心でいられることに戸惑いながら、二人は初めて味わう深い安らぎの眠りへといざなわれていった。


・・・・・・・・


翌朝、ユウリは自分の腕の中で安心して眠るヨーコを見つめながら、心の中に沸々と湧き上がる感情と静かに向き合っていた。初めて芽生えるこの思いを、きっと人は愛と呼ぶのだろう。どんなことがあっても目の前の大切な人を守り抜く。そして二度と離さないと決心した。時間がかかっても自分の信じた道を真っ直ぐに歩もう。そしていつか自分の理想とする音を奏でることが出来たら、自信を持ってヨーコを迎えに来ようと固く心に誓うのだった。


初めて二人で迎えた朝は、何もかもが新しく生まれ変わったような鮮やかな色に溢れていた。窓から見える桃色の空は今の二人の心を映している。ヨーコはベッドの中でまだ覚めきらない夢の中にいるようなふわふわした頭で思い出していた。昨夜自分の身に起こったことがいまだに信じられないでいる。こんなにも幸せでいいのかと甘い記憶の中を漂いながら困惑する心をもて余していた。


キッチンから甘くほろ苦い香りが漂ってくる。コーヒーが入ったマグカップを手に、ユウリがベッドに戻ってきてヨーコの頬におはようのキスをした。


こんな日が来るなんてまだ信じられない。夢に見ていたことが現実に起こると、それを手放すまいと何故か心は不安になるのだった。それはとても贅沢な悩みだと思い直し、ヨーコは必要もなく揺れる心を半ば呆れながら冷静に見つめていた。


「 ヨーコ、聞いてほしいことがあるんだ 」


真剣な表情のユウリがとても眩しく愛おしい。自然と笑みが溢れる。


「 しばらくニューヨークに行こうと思うんだ。二年か、三年。いや、もう少し長くかかるかもしれない 」


まだ夢の中にいるようだ。ユウリの言葉が理解できずにぼんやりする。


「 向こうでジャズを学んでみたい。体感して、そのリズムを、音を、グルーヴを身体に叩き込みたいんだ。本物の中に身をおいて、自分の力を試してみたい。どこまで通用するかは分からない。全くダメかもしれない。でも、それをどうしても自分の目で確かめてみたい。ダメならダメで、一から徹底的に勉強してみたいんだ 」


ヨーコは黙って聞いていた。少しずつ、微睡みの中でぼやけていた景色がはっきりとした輪郭を持って覚醒してくる。何か今、ユウリがとても大切なことを話しているのは分かる。でも。少しだけ待って。もう少しだけ、この幸せな時間の中にいさせて。切ない願いに昨晩のユウリの甘い吐息が一瞬甦る。もしかするとあれは全て夢だったのではないかと、ほろ苦いコーヒーの香りに思考が引き戻された。


「 ヨーコが僕に教えてくれたんだ。自分の人生を歩めって。誰のものでもない、自分の人生を、信じる道を、誰の力も借りず誰のせいにもしない、自分で選んだ人生を自分のために歩めって 」


「 そうね、そう言ったわ。そしてあなたは今度こそ自分のためにピアノを弾きたいと言ったの 」


「 必ず迎えに来る。自分に自信がついて、これが僕のピアノだと言える時が来たら。だからそれまで、ここで待っててくれないかな。ヨーコが待っててくれると思うと、絶対に諦めない。絶対に頑張れる。昨日の夜、それがはっきりと分かったんだ 」


ユウリの瞳は希望とエネルギーに満ち溢れていた。こんなにもキラキラしたユウリの瞳を今まで見たことがなかった。それはヨーコの中に芽生える、自分自身の再生と未来への希望の光のようにも見えた。


開くことを待つ次の新しい扉は、すでに二人の目の前にあった。


ー 続く ー


*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。



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