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コルトレーンの囁き Vol.2

『 感情の扉 』

離婚から三年。一人の暮らしにもすっかり慣れた。この街を選んで本当に良かったと、今思えばあの時の決断を自分のことながら褒めてやりたい気持ちになる。

都会の中心地での華やかな暮らしに心身ともに疲れ果てていたヨーコは、新しい人生の第一歩を踏み出す上で、環境を変えるためにまずは都心を離れて静かな暮らしがしたいと願った。あらゆる雑念を取り去り、自分を見つめ直すことで人として当たり前に備わっているはずの「喜怒哀楽」の感覚を取り戻し、止まった思考を回復させたかった。

八年間の不毛な結婚生活はヨーコの心からあらゆる感覚を奪った。自分は一体何に心揺さぶられるのか、何が好きで何が嫌いなのか。嬉しいとは、楽しいとは一体どういう感覚か。悲しいとは、怒りとは、喜びとは。その一つ一つの感情を取り戻したかった。五感を使って本来人間に備わっているはずの感情というものを取り戻さなければ、ヨーコは自分の人生を生きているとは言えないと感じた。それは何か焦燥感にも似た思いだった。このままではダメになる。本能的にそう思った。

以前に住んでいたタワーマンションの上層階での暮らしは一年中空調設備が整っていて窓を開けることは滅多になかった。部屋の中の温度や湿度は快適だったけれど、季節を感じることはほとんどない。コントロールしているのは人間なのに、いつの間にかそこに閉じ込められているような感覚があった。息苦しさのようなそれは、自分がまるで強制的に与えられた完璧な箱庭で飼われた、玩具のような小動物になった気がした。いや、その渦中にいるときはそんなことに気づきもしなかった。思考は完全に麻痺していた。それが普通、それがデフォルトの場合、人間は何の疑問も感じないようだ。今だからそう思うのであって、その場にいるときはなにも感じていなかった。


風を、香りを、光を、太陽の暖かさを、雨の冷たさを感じたかった。自然を身近に感じ、心を解きほぐして、それまで蓋をしてきた全ての感情の扉を、なんとしてもこじ開けたいと思った。


この部屋を選んだ理由は、以前の生活で失った感覚をここでなら取り戻せると確信したからだ。不動産屋で紹介されたいくつかの物件のうち、最寄り駅から一番遠いけれど、値段のわりには広いリビングルームと、奥にウォークインクローゼットが連なるベッドルーム。一人暮らしには十分な広さだった。なにより気に入ったのはリビングの東側にある大きな腰高窓で、ここから入る朝日を浴びて一日を始める自分の姿を想像しただけで気持ちが晴れるようだった。

「 風と光を存分に感じて、ここから新しい人生を始めなさい 」

窓辺に立った時、どこからかそんな声が聞こえた。その瞬間、ヨーコはこの部屋に住むと決めた。その時目に見えない、何か大きな力に背中を押されたような気がした。


「ここは防音設備がしっかりしているので、上下階の騒音が全く気になりませんよ」

不動産屋の言葉はヨーコにとってそれほど重要だとは思わなかったが、専ら静かなことに異存はなく、むしろ自分のこれからの人生をゆっくりと見つめ直すにはこれ以上ない環境だと思われた。とにかく一日も早く以前の結婚生活のストレスから解放され、心から安らげる自分だけの安全な場所を確保したかった。

静かな環境、緑の多さ、プライベートは十分に守られた。実際に暮らしてみるとヨーコはますますその部屋が気に入った。


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銀座の画廊で働くヨーコは、元夫の言う通りに見栄えが良かった。身長は百六十七センチでいつも九センチヒールのパンプスを履いていた。ロングのストレートヘアは一度もカラーリングをしたことがなく、毛先まで美しい艶があった。仕事の時はその長い髪が邪魔にならないよう一つにまとめていた。前髪は斜めに流しワックスで抑える。メイクはナチュラルに、しかし素顔に見えてはいけない。仕事モードを意識した極力色を使わないアイメイクに、自然な印象のコーラルカラーのチークとリップ。最近はネイルもナチュラルが主流なので、クリアのトップコートだけにしていた。清潔に、シンプルに装うことで、ヨーコの美しさはより際立つのだった。

初対面で人に知的な印象を与えるよう心掛けていたのは、クライアントに安心感と信用を与えるためのヨーコなりの戦術だった。取引先は企業や富裕層の顧客がほとんどで、店を任されて今年で十年目になるヨーコは、画廊のオーナーから商談の全てを任されていた。扱うものはオーナーが世界中から集めた絵画や、美術品に近いインテリア小物で、ヨーコは高価な商品を扱うのに相応しい服装や立ち居振舞いにも気を遣っていた。

商談の時のコスチュームは、ミニマムなデザインで知られるイタリアのメゾンブランドで買い求めた仕立ての良いパンツスーツを愛用していた。黒やチャコールグレーの落ち着いた色で、何の飾り気もないシンプルなものだが、ヨーコが着ると不思議と地味にはならず、かえってその素材や縫製の良さがシャープな顔立ちのヨーコの雰囲気を一層格上げしていた。そしてそれは女を売りにしないヨーコの仕事のやり方にとても効果的だった。何年も取引のあるクライアントとは時々誘われて食事やお酒の席を共にすることもあったが、誰もここからは踏み込ませないという緊張感のあるバリアを張っているヨーコに、それ以上の関係に持ち込もうとする者は誰一人としていなかった。


夫との離婚の原因になった取引先の営業マンとはあれきりだった。夫から高額な慰謝料を請求されたと男に知らせると、ものの見事にぱったりと連絡は途絶えた。自分の身にも不貞行為の責務が降りかかってくるかもしれないと危険を察知したのか、男はヨーコの前からあっけなく姿を消した。何度も身体を重ねて、嘘臭い芝居がかった愛の言葉を耳元で囁いた男に対して露ほどの未練も感じなかったのは不幸中の幸いだ。すぐにその薄っぺらな存在はヨーコの記憶の中から跡形もなく消去された。


離婚後はそれまで以上に仕事に集中した。もう一度、美術のことを勉強し直そうと、たくさんの文献や資料と格闘した。自らの審美眼を養うため、様々な美術館や話題の新進作家の個展などにも足繁く通った。そうして仕事に集中していると余計なことを考えなくてすむし、自分の生活のためだけに頑張ることは、それまで感じたことのない充実感を味わうことができた。決して意図したことではなかったけれど、それは仕事の成果として面白いように表れ、これまでになく売り上げが伸びてオーナーからも感謝された。仕事だけに集中することがヨーコにとっては心が安定したし、余計なストレスから解放されて気持ちは自然と前を向くことができた。商談が決まれば売り上げ金額に応じたインセンティブを受けとることができる。女が一人で生きていくためには人一倍の努力と仕事に対する拘りが必要だとヨーコは改めて実感するのだった。


その反動からか、仕事が休みの日はどこへも出掛けず、ひたすらひとりの時間と空間を心ゆくまで味わうことに楽しみを見出した。四十を手前にしてもヨーコの美貌は全く衰えず、それどころか憂いを帯びた色気が増して、その美しさは自然と人目を引き付けた。職場のある銀座の目抜通りを歩いていると必ずといっていいほどに声を掛けられた。ほとんどがお金も時間も持て余したような富裕層であろう紳士たちだったが、それらの声にヨーコは全く興味を示さなかった。せっかくあれほど辛い思いをして手に入れた自由だ。もう二度と手放すものかと固く心に誓っていた。


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休みの日に一人で家にいると、時々昔のことが突然甦ってくることがある。不意に訪れる過去の記憶は、見たくもない三文映画のようにヨーコの心にズカズカと土足で入り込んできて容赦なく荒らした。脳内にフラッシュバックするその映像を見ていると、否応なく鼓動が早まり息が苦しくなる。目の前が真っ白になり、思わず目を強く閉じて膝を抱えて床にしゃがみ込んでしまうのだった。

夫は家にいる間じゅうずっとテレビをつけていた。流行りの若いタレントやコメディアンが大声を張り上げてふざけあうような騒がしい番組が好きで、休みの日は朝から晩まで付けっぱなしだった。静かに本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きなヨーコは、そのような番組は嫌いで本当は見たくなかったけれど、嫌だから消して欲しいという一言が、何故か言えなかった。その当時はそれが当たり前だったので気にしないように努めていたが、こうして一人の時間を静かに過ごしていると、その当時のストレスが不意に甦ってくることがある。

ヨーコがひとりで何かを楽しんでいようものなら、必ず夫は邪魔をした。一人で出かけることも許さなかった。とても嫉妬深い夫の性格は、結婚後日を追うごとに酷くなっていった。ヨーコの体調が優れない時、最も夫の機嫌は悪くなった。本来なら寝ていたくても無言の圧力をかけてきて、ゆっくりと養生することもできなかった。外出先での態度にも気を遣った。レストランやショップの男性店員と親しげに話そうものなら途端に嫌味を言われた。普通に会話していても、家に帰ってからその時の男性店員のヨーコを見る目がいやらしかったと言っては難癖をつけた。ヨーコは夫と一緒に外出することが次第に億劫になっていった。

たくさんのことを我慢していたんだな、と思う。今思うと家の中では自分の時間や自分の居場所なんてなかった。常に夫の顔色を伺い、夫の快適に合わせ、楽しんでいるフリをしていた。いや、実際にその瞬間は楽しんでいたのかもしれないが、それさえも他人の感情を思い出すかのようでとても違和感のあることに思えた。自分のことなのに、まるで前世のことのように遥か遠くに感じる。あの頃の自分を思い出すととてももどかしく、哀れに思えて仕方なかった。


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リビングの東側の大きな窓を開けると、爽やかな風が優しく吹き込んできた。もう間もなく梅雨入りだと思うと、余計にこの晴れのひと時が、愛しい貴重な時間に思えて心を感傷的に揺さぶった。遥か彼方の地上に向かって、薄曇りの空から溢れる太陽の光が何本もの天使の梯子を降ろしているのが見える。

あれから三年経ったんだ…… ここへ来てからは何気ない毎日をとても幸せに感じる。自分の人生を生きているという実感。毎月給料の半分を元夫への慰謝料として払い続けるのは苦しいけれど、この空間と時間を買っていると思えば全く嫌ではなかった。逆に自分の人生を取り戻したというプラスの感情がヨーコの心を上向きにした。


歌うような鳥の囀りに誘われて窓から顔を出し、外の空気を思い切り吸い込んでみる。緑の匂いを含んだ潤いのある風が肌に心地良い。部屋にはいつものようにヨーコの好きなコルトレーンのサックスが流れている。読みかけの女流作家の小説は自分の過去とリンクしすぎていてなかなか進まない。でもこれもひとつのリハビリだ。そう思えば架空の小説に思いを馳せて少し落ち込んだりすることさえも、なんだかとても贅沢なことのように思えてくる。自由であることを再確認させてくれる悲しい物語は、ヨーコにとっては心を回復させる薬のようなものだった。読んでいる最中は苦しくて仕方ないのに、本を閉じるとそこには自由という名の現実がある。その事が嬉しくて、わざとそんな物語を選んで読んだ。


三年間という時間をかけながら、少しずつ過去のトラウマも克服できるようになってきた。思い出すと今でも息苦しくなることもあるが、時間薬という言葉の意味を身をもって体感できるまでに回復しつつある。空一面に薄くたゆたう雲が切れ始め、天使の梯子が消えると同時に強い光が地上を照らし始める。この先の人生にはどんなことが待っているのだろう。希望という名の光はヨーコを何処へいざなって行くのだろう。雲の切れ間から覗く青い空はどこまでも高く、遥か遠くの空を飛んでゆく鳥たちが自分と重なって、その行方を見守るようにいつまでも見つめていた。


しばらくの間、そのまま窓辺に佇んでいると、どこからともなく軽やかなピアノの音色が聴こえてきた。

ん、 CDかな …… いや、これは生音だ。どこから聴こえてくるのだろう……

耳をすませて注意深く聴いていると、驚くことにそのメロディはヨーコの iPad から流れているコルトレーンのサックスとセッションしているではないか。少しばかりの戸惑いよりも大きく膨らんだ好奇心を押さえることができず、ヨーコはボリュームを少し上げた。

間違いない。浮き立つ心を必死で押さえつつ、しばしその音色に陶酔した。上階の住人だろうか。まだ会ったことはないけれど、確か先週このマンションに新しい入居者がいたはずだ。防音設備が充実しているだけあって、窓を閉めているときは全くピアノの音には気づかなかった。いや、きっと普段は音が漏れないようにヘッドホンをつけて弾いているのだろう。ということは、この部屋の窓から外に漏れる音を上の住人は先程から聴いていたのだろうか。即興でこんなにも軽やかにジャズが弾けるのだから、そうとう実力のあるミュージシャンなのかもしれない……

妄想と好奇心はとどまることを知らず、その流れるようなピアノの音色にヨーコは一瞬で心を奪われた。


ー 続く ー


*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てをお読みいただけます。



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