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夢の国へ✨

私は遊園地が好きではない。

昔からそうだ。子供の頃の記憶は定かではないにしろ、JK時代は仲良しグループで遊びに行ってはいたのだが。まぁ、一人で反対して空気読めない人認定されてもなんなので(別にされてもいいのだけれど仲良しグループの仲間たちと一日過ごすことは文句なしに楽しかったので行き先はさほど問題ではなかった)大人しく付いて行ってはいたけれど、本当は好きではなかった。

園内の建物のハリボテの作り物感も、人工的な緑地帯も、ガヤガヤとした喧騒も、何を買うにも並ばなければいけない行列も、人気のアトラクションの待ち時間も、園内スタッフのわざとらしく張りついた笑顔も。そして遊園地の華やかな表舞台とは対照的な、外れの一角に必ずあるデッドスペースの物悲しい場末感も。遠くに聞こえる音楽を聴きながら誰からも見捨てられたようにポツンと佇むペンキのハゲたベンチに腰を下ろすウラ寂しいあの感じも。何もかも好きじゃなかった。だからこれまでの人生で自分から遊園地に行きたいと思ったことは一度もない。

人生には「遊園地シーズン」というのが何度かやってくる。

高校生以来、大人になってからも何度か仲間とかデートで行ったことはあるけれど、それも数えるほどしかなかった。それが一転、結婚して子供が産まれると人生で久々に訪れる遊園地シーズンが否応なくやってくる。子供が三歳ぐらいから始まるこの期間は結構長い。何かというと遊園地。なぜかというと「間」が持つから。行けばなんとかなる。全面的に楽しませてくれる。そして何より子供が喜ぶから行く。

フルタイムで働き、帰宅してから一息つくまもなく家事をこなし、子供を寝かしつけてようやく一人の時間が持てるのは唯一お風呂タイムだけ。毎日が戦場のように大忙しの日々でようやく週末の休みがやってくるのだが、さて子供達を連れてどこへ行こうかとなったら一番先に考えつくのは遊園地。自分は好きではないけどとりあえず行けばなんとかなる。

子供たちは小学校高学年にもなると友達同士で行くようになるので、それまでの間、クタクタな体を引きずるようにして励行する遊園地修行は約10年間ほど続く。でもその頃は自分も20代後半から30代とまだまだ若いのでまぁなんとかなった。子供の喜ぶ顔を見るだけで親業を全うできている満足感も得られるのだから何も文句はなかった。

その後、子供が成長するとパタリと行かなくなった。考えてみたらここ15年以上行ってなかったかもしれない。遊園地シーズンは終了したかに思われた。

それが先月、娘がある提案をしてきた。なんと、今年20周年のディズニーシーへ行こうというのだ。娘は言わずと知れたディズニーマニア。オタク気質の娘は友達や職場の先輩と頻繁に行っているが、それだけでは飽き足らず、一人でもよく行くのだ。一人ディズニー。何というかまぁ、私からしたら信じられない苦行のように思える行為だが、娘に言わせると「誰にも気兼ねせず、DLを心底楽しめる」のだそうな。まぁ、個人の楽しみなのだからいいですけれど。

なんでも、ディズニーシーの新アトラクション「ソアリン」に私を乗せたいという。何故に?よくよく聴いてみると、11月の私の誕生日プレゼントとして、家族三人を招待したいと。そしてディズニーの楽しさとソアリンの素晴らしさを是非とも体感してほしいと。なんということでしょう。

考えてみたら私が最後にディズニーランドへ行ったのはかれこれ22年前。息子がまだベビーカーに乗っていたような記憶がある。その時は家族四人だった。二歳児の息子はほとんどベビーカーの中で寝ていて記憶にないようだ。七歳の娘と「イッツ・ア・スモールワールド」や空飛ぶプーさんのなんかに乗ったことは朧げに思い出される。とにかく仕事と子育てに疲れ果てていたので、ほとんど覚えていない。

さて、どうしよう。私は一瞬迷った。好きじゃないのだ。例えディズニーだろうが遊園地というところが。でも、せっかく娘が招待してくれると言っている。そして懇切丁寧にディズニーシーの見所やアトラクションやレストランの20周年限定メニューまで、事細かにプレゼンテーション動画を披露してくれた。あぁ、そうですか。はい、わかりました。行きましょう行きましょう。もうこうなったら冥土の土産に人生最後のディズニーへ、レッツラゴー!だ。


いざ行ってみると、そこは紛れもなく「夢の国」だった。

こんなに楽しいところだったのか。そしてこんなに綺麗でゴージャスだったのか。私の目は節穴だった。人生で初めて遊園地が楽しいところだと分かった。

人生で三度目に訪れた遊園地シーズンはこれからだと確信した。それは子供たちに「連れてきてもらった」遊園地。ただただ楽しめばいいだけの夢の国。ソアリンは凄かった。魔法のじゅうたんに乗って世界一周した。風が舞う。波が踊る。イルカの群れが見える。シャチが跳ねる。眼下に広がるアフリカのサバンナ。象の群れが悠々と行く。草の香りがそよぐ。ピラミッドの頂点を飛び超えて万里の長城が浮かび上がる。キャーキャー喚いて喜んでいたのは私だ。子供たちは私のうるさくはしゃぐ姿に大ウケだった。これに乗せたかったという娘の満足そうな顔が輝く。

お昼は娘が予約してくれていたS.S.コロンビア号の中にあるフレンチのコースを堪能した。小さな子供連れではなかなか来ることができない、ちょっと敷居が高い本格フレンチレストラン。こういうところも大人ならではのディズニーの楽しみ方なのだなとゆったりとした時間を満喫した。ランチを終えて展望デッキに出ると東京湾の煌めく水面の向こうに海ほたるが浮かんでいる。サイコーの眺めにしばし見惚れて時間を忘れる。Twitterに写真を逐一あげてはしゃぐ母。

それにしてもディズニーは広い。そして楽しい。美しい。細部までこだわり尽くした園内の造形美はいちいち感動する。ちょっと喧騒から外れたところまで足を伸ばしても、そこにあるはずの「うらぶれ感」や「たそがれ感」が全くない。逆にこんなところにまでという見事なまでの拘りが、見れば見るほど心震える感動を連れてくる。隅々まで何処をとっても見事な物作りに感嘆する。当たり前でしょ、だってディズニーだよという娘の呆れた言葉に頷くしかなかった。いや、こんなふうに自分が「ただ楽しめばよい」という状況下でないと、この感動は得られないのだ。きっと、22年前も同じようにディズニーはゴージャスで美しかったはずだから。


アトラクションはどれもすごかった。22年前も乗らなかったような絶叫モノにも挑戦した。三人で地図を持って謎を解く探検モノは子供に戻ったようなワクワク感に心を躍らせた。何度も訪れているのにここは来たことなかったという娘が喜んだのは体験型アトラクションの中にある迷路のような要塞。宇宙の模型を眺めつつ、あれは火星、あっちは木星、あれは金星と言いながらハンドルを回すとクルクルと動く惑星たちを見て童心に返る。自転しながら公転する地球を眺めて、あぁ、人間はなんてちっぽけなんだとしばし宇宙に想いを馳せた。何処まで連れて行くのかディズニーシー。

たっぷりと7時間あまり楽しんだ頃には日が陰りだした。ここからが一層その美しさに魅了されるのだ。ネオンが輝き、現実の世界からまた一段と遠のく。しかしながら私の腰と脚は限界に達していた。小さな階段を二段ほど踏み外し、危うく尻餅をついてしまった。子供たちは驚いてすぐに助け起こしてくれたけれど、それからは歩く速度をゆっくりと、先に進む息子は時々後ろを振り返っては私がついて来れているか心配してくれる。あぁ、歳を取ったんだなと改めて思い知らされる。はるか遠い記憶の中では、疲れてぐずりだす息子を抱っこし、娘の手を引いて気を張っていた若き日の自分を懐かしみながら。よくまぁここまで生きてきたもんだと自分で自分を労いたくなった。

夜の帳がすっかり降りてキラキラした夜景が見応えのある時間になったら、本来は花火やパレードでもうひと盛り上がりするのだろうけれど、限界に達した母を気遣ってベンチで一休み。ビールに舌鼓を打ったらもう動きたくない。そろそろ時間となりました。帰りのラッシュに巻き込まれない時間に、帰路に着くことにした。


こんな日が来るとは夢にも思わなかった。本当にそれはそれは楽しい一日だった。何が驚いたかというと、この遊園地嫌いの私が一番楽しんでいたということと、大人になった子供たちに連れてきてもらった嬉しさと、本来のディズニーの素晴らしさを隅々まで味わわせてもらえたことが、実はとても意外だったのだ。きっと疲れるだろうなとか行列に並ぶのは嫌だなとか、行く前の杞憂は何一つ見当たらなかった。そのことがとても嬉しくて、ひたすら感謝しかないことの嬉しさを噛み締めて、夢の国を後にした。

あれから四日。いまだに筋肉痛なのは言わずもがな。心地よい痛みは楽しい嬉しい思い出と共にもうしばらく味わうことにしよう。

ありがとう娘。ありがとう息子。そしてディズニーよ、ありがとう。

またいつか。


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