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コルトレーンの囁き Vol.7

『 悲しい覚悟 』

レストランから出たあとも繋いだ手を離さないユウリは、怒ったようにずっと黙り込んで何か思い詰めたような顔をしている。二人は並木通りの木漏れ日の中を言葉もなく肩を並べて歩いた。周りには自分たちと同じように恋人達が手を繋いで、愛の言葉を囁きながらのんびりとした歩調で散策を楽しんでいる。

愛する人との時間に嬉しさが隠せないといった表情の女性と今の自分とを比べて、やはり私はこの人には相応しくないのではないかという疑念が切なく湧き上がる。いくら恋しいとはいえ、あまりにも自分は汚れすぎている。不本意だった結婚生活も、見失っていた自分自身も、離婚の原因も。全ては自分が蒔いた種なのに、離婚から三年の歳月が経ったとはいえ、この恋は余りにも分不相応なのではないか。ユウリにはもっと相応しい人がいるはずだ。そんなことはこの地球上の人間の誰に聞いてもきっと同じ答えが返ってくるに違いない。ヨーコは無言のまま歩き続けるユウリの心を量りかねて、自暴自棄になってしまうのだった。

さっきの元夫の言葉をユウリはどんな気持ちで聞いたのだろう。あの言葉は離婚の理由としては決定的な一言だ。場合によってはユウリに対しての欺きと捉えられても仕方ない。もしかすると、ユウリとはこのデートが最後になるかもしれないとヨーコは覚悟をしなければならなかった。

暫く二人はお互いの様子を探りながら無言のまま歩き続け、遊歩道の途中にあるベンチを見つけて腰を掛けた。新緑の木立の中を爽やかな風が吹き抜けていく。いつの日か遠い先の未来で今日の事を思い出すのかもしれない。ふとそんな思いが頭をよぎる。


「 少し先の未来の約束 」

最も美しい黄金色の季節の約束に想いを馳せて、浮き足立っていた数時間前の自分が懐かしく、もうそれはずっと遠い過去の思い出になってしまったように感じて、ヨーコは一人静かにため息をついた。

ユウリの心の中が気になる。一体彼は今何を感じ、何を考えているのか。空を仰ぐその横顔はいつになくシリアスだ。やはり先ほどの店で、元夫の言った言葉を気にしているのだろうか。


「 俺を裏切った張本人 」

その言葉の意味はもう子供ではないユウリにも簡単に想像がつくだろう。そしてそれはユウリが幼少の頃から父親に抱いてきた、復讐したいほどの恨みの根源であることと容易に結び付くはずだ。ヨーコは今更ながら自分の犯した過去の罪に対して、夫には全く抱かなかった懺悔の念を、そのこととは全く関係のないユウリに対して強く感じていた。店を出てから二人の間に続いている重苦しい沈黙に耐えきれず、ヨーコは自分から覚悟を決めて口を開いた。


「 私はあの人を裏切ったのよ。それが直接の離婚の原因だったの 」


ユウリは表情を変えず、若葉の間から差し込む木漏れ日を浴びながら黙って聞いている。


「 あの頃の私の状態をどう説明すればいいのか、とても言葉にするのは難しいのだけれど…… 」


話を遮るようにユウリはようやく重い口を開いた。


「 過去のことなんて僕にとってはどうでもいいことなんだ。ヨーコとあの人との生活が破綻して、離婚したからこそ僕達は巡り会えた。もしも別れていなければ今僕らが住むあのマンションにヨーコはいなかった。僕がヨーコに出逢うことは叶わなかった。でもこうして今、僕の目の前にはヨーコがいる。ヨーコの目の前には僕がいる。それがすべて…… それだけのことだよ 」

ヨーコはそれ以上、何も言えなくなった。ユウリの目が「 話さなくていい 」と言っていた。話したところで自分の過去は変えられない。犯した罪は消すことはできない。そう思うと、その事自体に囚われているのは自分だけなのだと分かる。全てを話せばすっきりするのは自分自身だ。このまま話さないで罪の意識を持ち続けるのも自分自身。話したからと言って、それをユウリにどうして欲しいというのか。

  ‘’あいつが悪いから仕方なかったんだよ‘’  と言って欲しいのか。‘’辛い生活だったのだからそれはヨーコのせいじゃないよ ‘’ とでも言われれば救われるのか。

そうじゃない。どんな言葉が欲しいのか、何をユウリに期待するのか。それは自分を単に正当化するための言い訳と何ら変わらない。だったら今ここで自分の過去をユウリに話すのは違うと感じる。自分の過去をどう捉えるかは自分自身の問題であって、ユウリには何の関係もないことなのだ。



「 さっきの話だけど…… 」

思い詰めたように言葉を選んでいるのが伝わってくる。

聞かれれば何でも答えよう。ヨーコは気持ちを切り替えてユウリの言葉の続きを待った。


「 さっきあの男の前で僕が言ったことなんだけれど。覚えてる? 」


先程のレストランでのやり取りを思い出した。確かユウリはヨーコに対して「 正式に付き合ってほしいと申し込んだ 」と男に言った。それはきっと人前であんな嫌みを言われた腹いせだろうと思い、気にしていなかった。


「 まったく、パトロンなんて失礼な話だわ。本当にごめんなさいね。でも私といると世間一般的にはそう見えるかもしれないわよね 」


「 なに言ってるの? ヨーコは本気でそんな事思ってるの? 」


ユウリが怒る気持ちは分かる。でもそれは事実だし仕方のないことだ。どう見たって恋人同士というよりはそっちの見方の方が普通だろう。でもユウリは男だ。若いといっても大人の男だ。プライドを傷付けないように慎重に言葉を選ぶ。


「 私はもうすぐ四十よ。どう見たってあなたとは釣り合わないでしょう。だからそんな風に言葉のあやで言ってしまったことに対してとやかく言うつもりはないわ。大丈夫よ。気にしないで 」


「 そうじゃないよ。そうじゃなくて…… 本気で考えてほしいんだ。僕とのこれからの人生を 」


その言葉を心の片隅で待っていたのは事実だった。だけれどそれは単なる夢物語であって実現はしないと知っている。ユウリは今、寂しいだけだ。本音が吐ける心の拠り所のような存在の自分に情が絆されただけなのだ。勘違いしてはいけない。本気にして後で傷つくのは自分だと分かっている。ヨーコは揺れる気持ちを必死で押さえて応えた。


「 ねえユウリ、あなたのことはとても好きよ。できることならずっと一緒にいたいと思ってる。このままいつまでもこの夢が覚めなければどんなに幸せだろうと思う。でもね、必ずあなたはいつか目を覚ますわ。その時私はどうなってしまうかを考えると、とても耐えられそうにないの。そんなに強くはないのよ、こう見えてもね 」


「 ヨーコが僕より十才年上だから?」


「 十じゃないわ。十三よ 」


「 大して変わらないよ。そんなの単なる数字じゃないか 」


それはあなたが年下の立場だから言えることなのよ。年上の私からは絶対に言えない…

心の中の本音をグッと堪えて、ヨーコは更に言葉を選ぶ。


「 ありがとう。とても嬉しい。でも少し考えさせて。あなたの想いはしっかりと受け取ります 」


今はそれ以上は言えない。喜びと諦めと期待と落胆がぐちゃぐちゃに綯い交ぜになって心に渦巻く。このまま、感情のままにユウリの胸に飛び込めたらどんなに楽だろう。

ヨーコの言葉にユウリはそれ以上何も返さなかった。そして言葉にできない思いを表すように繋いでいた手により一層力を込めた。


明日からはまた本格的な梅雨空が戻ってくるらしい。今日のこの青空を、ユウリからもらった言葉と共にいつまでも覚えていようと、ヨーコは眩しすぎる五月晴れの空を見上げながら深く心に刻んだ。


・・・・・・・・


あれから幾日かが過ぎた。あの日のユウリの言葉は内心、心浮き立つほどに嬉しかった。だがそうかと言ってすぐに結論を出すわけにはいかないと、ヨーコは自分の心にブレーキをかけていた。少し頭を冷やす必要がありそうだ。気持ちを紛らわす様に暫くは仕事に専念しようと決意を新たにした。ユウリとは以前と変わらない関係が続いている。続いてはいるが、どこか前とは違った、目に見えない境界線をヨーコ自ら引いている。そうする事で逸る気持ちを抑える必要があった。感情だけで突っ走れない年齢だと、嫌が応にも思い知らされる現実が腹立たしく、諦めようとする自分が情けなく、悲しかった。


・・・・・・・・


その日は朝からクライアントとの商談が二件続いて、気がつくと午後一時を過ぎていた。今日は自分でも頑張ったと思う。アールヌーヴォーの中でも高価で珍しいエミール・ガレのランプシェードとドームのテーブルランプを納めることができた。花や植物などの有機的なモチーフが特徴の、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてのヨーロッパの芸術作品はヨーコの一番得意とする分野だ。クライアントの注文に合わせて提案したものが先方のインテリアとピタリとハマってとても喜ばれた。プライベートの悩みや心配事は仕事を充実させることで半分は気を紛らわすことができる。仕事をしている時間だけでも現実から距離を置くことで心をフラットに保つことを、ヨーコは長年の経験で身につけてきた。


遅いランチを取るためにヨーコは画廊のドアプレートを「休憩中」に掛け替えて表に出た。鍵を閉めて振り返ると、そぼ降る雨の中、見覚えのない女性が店の前に立っていた。

年の頃は五十を過ぎたばかりといったところか。見るからに上質な麻のミックスツイードのスーツを着ている。豊かで艶やかなウエーブの髪が肩に掛かり、美しい中年女性特有の品の良さと色気を併せ持っていた。

ヨーコはてっきり画廊に来た客だと思い、笑顔で会釈した。

「 すみません。どうぞ、今開けますので 」

再びドアの鍵を開け、女性客を中へと案内した。

「 いえあの、すみません。私お客じゃないんです…… 」

ヨーコは不思議に思い、女性の顔をもう一度よく見直した。そして次の瞬間、衝撃とともに背筋に電流が走った。そこにははっきりとユウリの面影が見て取れた。


「 突然押しかけてすみません。私、佐倉ミサエと申します 」


「 ユウリくんの…… お母様ですね? 」


深々とお辞儀をしたミサエは、顔を上げると真っ直ぐ射るようにヨーコを見つめて言った。


「 お願いです。どうかあの子と、ユウリと別れてください 」


その表情は深く思い詰めたような苦悩の色を浮かべていた。


ー 続く ー


*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。



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