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自己紹介*幼少期~現在まで*

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幼少期~小学校まで

父は仕事人間、母は専業主婦。
私は一人っ子という家庭。
父は転勤族で北海道内を転々としていた。
私が小学校に上がる前、母がうつ病を発病。
母は精神科からもらった赤い毒々しい薬が嫌だ、という理由で
薬は一切飲まなかった。
当然、うつは完治せず。
母は入学前の家にいる私を疎ましく思ったのか、
友達も誰もいない土地で「外で遊んできなさい」と言われ、
いつも外に出されていた。
これって「放置子」というものじゃないだろうか、と
最近ふと思っていたりする。
小学校は3回変わり、
最後の転校の小学校6年の時3学期の時、不登校になる。
あの時の私は「今、どうしたい?」と聞かれたかった。
母でも父でも先生からでも、誰でもよかった。
でも、誰一人として聞いてはくれなかった。
12歳の私は孤独を感じていなかったけど
そんなはずはなかったんだよな。と気づいたのは大人になってから。

中学校~専門学校まで

小学校6年の時に不登校をしたが中学は真面目に通った。
友人もそこそこ出来た。
中学はとにかく部活の為だけに生きていたって感じだ。
部活は吹奏楽部。担当はフルート。
中学の入学式に吹奏楽部が演奏してくれていて
いたく感激した私は、とにかく吹奏楽をやりたかった。
なんの楽器やりたい?と聞かれた時、
あー、そこまで考えてなかったわ。と初めて気づき、
音楽の教科書を思い浮かべて言ったのが「フルート」だった。
しかし、その年のフルートの希望者が6名いてじゃんけんになり
思いつきの私が勝ってしまい担当になってしまった。
心の底から憧れてフルートと言った人もいたかもしれない。
今でも「あの時、じゃんけんに勝ってしまって申し訳ない」と思っている。
中学時代のフルートは今でも宝物として大事にしまっている。


高校はまた父の転勤で違う土地に行った。
だから高校受験はその土地で受け、
入学に合わせて引っ越しした。
最初は吹奏楽部に入ったが
なんだか水が合わないというか
ここにいてはいけないような気がして
1学期中に辞めてしまった。
そこからイラスト部を立ち上げ
またもや部活に命を燃やしていた。
住んでいた町でコミックマーケットを
主催していた方にお声をかけられ、
団体に入りコミケを作るお手伝いをさせて頂いた。
そのおかげで引っ越して3年間の間に
市内すべての高校にお友達ができて楽しかった。
ついでにヘルプでバンドのキーボードもやっていたりして
なんだかんだ人脈もでき,「青春」をやっていたと思う。
自分の学校のクラスには馴染めていなかったと思うし、
かなり浮いている方だったと思うし、
いきなり友達から無視されたりして辛いことも経験したけど
すごく濃い3年間だった。


万年反抗期だった私は、大学に行けという両親の反対を押し切り
就職の相談を先生にしていたが、
結局、調理師専門学校に進学が決まった。
しかも高校3年の冬に急遽決めた進学先。
中学時代に住んでいた街へ18歳で一人暮らしを決めた。
でも、料理は好きだし将来喫茶店でも開きたいな。
なんていうのは甘かった。
調理師はプロの世界、職人の世界。
私の幼い精神状態では全くついていけない世界だったのだ。
本当に、なんの覚悟もないのに飛び込んじゃダメだよ。
職人さんに失礼だよ。もっと未来を見据えてキチンと考えろ、
と、当時の私に言ってやりたい。
今、すごく反省してる。
毎週末遊び狂っていたけど、
テストだけは頑張って、調理師の資格は取得済

社会人になってから

調理師の資格があったので飲食店で働いてみたものの
どうやら私は調理師という職人のお仕事は
出来ないということがわかった。
その自覚が出た後はホール担当として働いていた。
しかし、腰のヘルニアでドクターストップがかかり
飲食店のお仕事は退職。
その後事務員をしていたが、会社丸ごとお引越しすることになり
通勤できる範囲ではなくなり退職。
困っていた所に友人の勧めで百貨店専門の派遣会社に登録し
デパートで販売員として働くことになる。

数字に追われる日々

当時の百貨店派遣は、「売上をあげる人が正義」であった。
売上の数字が上がらなければ即日クビということもありうる世界。
数字に追われまくり、10円ハゲ、突発性の発熱、胃腸炎、
声が出なくなる、めまい、食欲減退又は過食、を繰り返し
精神的に追い詰められる日々。
心の底から「数字に追われる日々は体と精神に合わない」と
痛感していた頃、実家に帰ることになった。
実家に帰ってからも接客ということは好きだった為、
直接自分に数字が降りかかり、自分の精神力が壊されない
お店の品出しやレジ等する仕事を好んでしていた。

両親のガン

実家に帰った3年後、
最初に父がガンで亡くなり、
その1年後、母がガンで亡くなった。
私は一人っ子で親戚も縁遠い。
あまりにも恐怖で両親が眠る納骨堂で一度だけ泣いた。
当時、付き合っている人はいたものの遠距離で
私が引っ越して一緒に住もうと試みるも、
色々な事情が重なり無理だった。
そのことが直接的な理由ではないが
その方とは後にお別れすることになる。
結局、両親の三回忌法要を終えたのちその土地を離れ、
親しみ慣れた中学時代に住んでいた街に引っ越すことにした。
落ち着いた頃、初めて亡き師匠に出会う。
私は「将来、絶対に無くならないであろう職につこう」と思い、
老人介護の施設職員として働くことにした。
その頃から心理カウンセラーやパワーストーンのことを
勉強するようになる。

今でも介護職員は続けている

老人介護の施設に働いているが、
その仕事が好きで続けている、というより
会社が好きで今だお世話になっている。
小さな会社だから大変なことも多いけど、
人間関係が抜群に良い。
休みの日も「暇だから」という理由で
会社にぶらりと行くぐらい好き。
でも、この会社を辞めたらきっと介護の仕事は
もうしないんだろうな、と思っている。

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