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【十二国記感想】② 天を試す人々

ネタバレあります

 「私はこの世界と王の関係に興味があるんだ。何が起こればこれはどうなるのか。それを知りたい。」
 「王と麒麟をめぐる摂理に興味があるが、だれも答えは教えてくれないからね。知るためには試してみるしかないんだ。」
(「白銀の壚 玄の月」十三章6 琅燦の言葉)

 天を試しています。
 "琅燦お前は何やねん"問題もあるわけですが、そもそも十二国記の世界の人々は「天」をどうとらえているのでしょう。

 仙となって朝廷に仕える人も含めてほとんどの人は、「何となくぼやーっと世界を覆っているもの」ぐらいのとらえ方ではないでしょうか。
 
 私が「神様なんて信じてないけど、何となく天罰とか当たりそう」と思っているようなレベルで。
 天の摂理が具体的に働いたり、天という場所や天帝という人が実在するなんて、真剣に受け止めていないのでは。


 実際李斎は、天の実在を延王尚隆から教えられ、愕然とするわけです。自身にも昇山の経験があり、王や麒麟の近くに侍っていた彼女でさえこうです。
 
 下位の仙や雲海の下の一般ピーポーは推して知るべし。天どころか王や麒麟の存在さえ実感しているとは思えません。

 それに対して、神籍に入っている王と麒麟は、天勅を受ける時点で否が応でも「天」の存在を思い知らされます。
 
 蓬山の何もなかった所に忽然と天へ向かう透明な階段が現れる。白い鳥が導き階段を昇ると、天綱が体に刻み込まれていく。しかも天綱に背けば、天はわが身を破滅させる。

 「身に染みる」とはこのことです。信じるどころの話ではありません。


 何だか愕然とするほど王や麒麟とその他の人々では、天への認識に差があります。


 さてここで、話はアニメ37話、陽子が昇紘と対決する場面に飛びます。
 飛びすぎです。「風の万里 黎明の空」の止水郷郷長、昇紘です。鈴の連れていた少年をひき殺した、ケダモノ昇紘です。

 なぜアニメかというと、彼が陽子に捉えられるシーンがアニメオリジナルだからです。

 昇紘は陽子の正体を知らずにこんなことを言います。"天が禁ずるありとあらゆる悪事を働いたが、天はこの身を罰せずにいる。そんな自分を誰が殺せようか"と。

 しかし陽子が「主上」だと気づき、全てを悟ったかのようにふははは~などと高笑いし、"天はちゃんと私の在りようを見ていた。そして私を罰するために主上を我がもとに遣わした"「やはり天の理は存在した」という答えを得て、陽子に下るのです。

 天を試しています。

 このアニメの昇紘は、天の存在を信じ切れずにいた。王が国を荒らし民を見捨てても、天は何もしない。
 それに絶望して天を試す所業に出てしまったかのように描かれています。
 
 そして陽子が彼を倒しに来た時に、観念したようにも救われたようにも見えます。
 
 うーむ。なんだか納得してしまうのです。顔も渋みがかったいい男だし。
 陽子を王と認め、剣を捨て、「首をはねよ」と潔いところも◎。嫌いじゃないです。ピアスもしています。笑  
 ご老公様に逆ギレして偽物呼ばわりした挙句、暴れてみせる悪代官とはモノが違います。

 郷長あたりで、王の顔が分かるような機会があるものか疑問もあるけど。許さんけど。


 やはり王と麒麟以外の人々にとって、天は在るか無いか、分からないようなものなのだな。と思ったのですが・・・。


 琅燦と昇紘を比べて、よーく考えると、おや? 

 天を試すことは同じでも、琅燦と昇紘では、まったく拠って立つ前提が違っているではありませんか。

 昇紘は天の有無自体を知りたかった。

 しかし琅燦は天の摂理に非常に詳しい。「天の摂理は有る」と知ったうえで、それがどのように世に働くのかを知りたかった。

 アニメの昇紘の考え方は、現代人の我々に非常に近い考え方。だから納得しやすいのです。(いい男に描かれてるし、きっとそういう役割で作られたのでしょう)

 しかし琅燦は生粋の十二国ワールドの住人としてブレません。天を在るとしたうえで、なお試す! 琅燦許さん。でも嫌いじゃないです。 

 そして"琅燦お前は何がしたいっちゅうんじゃ。お前何やねん"となります。
 

 アニメ昇紘と陽子のやり取りの中に、まだ気になるところがあります。陽子は"私は天の意思でなく自分の意思でここに来た"と言いますが、昇紘は「だからこその天意だ、やはり天の理は存在した。」と。

 うーむ。王とは天の操り人形なのか?本人は自分の意思でやっているつもりでも?
 しかしそれなら、天は王がちゃんと世を治めるように、もっと王をコントロールすればいいのに。失道も革命(王の交代)もなくなります。

 なんだか殺伐としてきました。王は天の傀儡。歯車の一つ。世界は固定化され動かない。

 しかし、天はそれをしない、もしくはできない。
 陽子も尚隆も、ほかの王様方も実に生き生きと、人間臭く頑張っています。ダメダメだった前塙王なんて、ヒトの醜さ丸出しです。

 人間だもの  笑

 だからこその十二国記。その有様を私たちは存分に楽しんでいるのです。
 

 陽子たちは、もうそのまま、自分らしく居てください。麒麟さんたちだって、人の形をとって、それぞれ実に人間臭いです。大好きです。

 しかし!

 麒麟は自分の意思でなく、天命を世に伝える器として働く。たとえ自分が憎んでいる人物でも、天啓を受ければその人を王にせざるを得ない。
 
 天の縛りは王に対し、麒麟ほど厳しくはないようです。すべては麒麟を通して王に伝わります。王の失政も、まずは失道の病として麒麟に現れます。王にダイレクトに天が働きかけることは滅多にありません。

 やはり王は自分の意思で天意を体現していくことが求められているようではあります。

 けれども王も天の縛りを受ける存在には変わりありません。テキメンの罪なんていう恐ろしいものもあります。
 だから、あるいは昇紘が言ったようなことが起こるかも、とも考えてしまいます。

 何だか琅燦が知りたかったことに関係している気がしてきました。

 実は天が働きかけるのは、王と麒麟のみなのですね。

 いくらアニメ昇紘が「天よ我を罰してみよ」などとほざいても、昇紘は天のアウトオブ眼中、知ったこっちゃありません。天が罰するのは昇紘を放置した王と麒麟です。昇紘はお構いなし!

 だから琅燦は、「この世界と王の関係に興味がある」と言った。実験に「王」を巻き込むしかなかった。王と麒麟以外では意味がないのです。

 次回は琅燦がしたかったことを、もう少し突き詰めたいと思います。

 突き詰めたって、答えはありませんよ。自分の中でああでもないこうでもないと、ぐるぐるするだけです。でも、物語を文句なく堪能した後、まだこんなにも考える楽しみを与えてくれる十二国記シリーズ。素晴らしいです!

続く

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