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【十二国記 感想】④ 天と王の意思と麒麟の角

ネタバレあります

 ずっと天について考え続けて、まだ天です。
 ここまであれこれ考えた結果、天は「王と麒麟しか見ない」と考えるようになりました。 
 「天下は仁道をもってこれを治むべし」と天綱は王に言います。けれど天は、自身で民に仁道の政治が行き渡っているか確認するわけではない。王が、「そうしているかどうか」しか見ないのです。民の様子は麒麟によって分かる。極論すれば、天は民そのものには関心がない。王と麒麟が天綱に従っているかどうかだけを問題視していると思うのです。

 だから、王でない阿選の非道により民が苦しんでも、民を救わないし、王でない阿選にも興味を示さない。もしくは、天というシステムの能力が極めて限定的で、王と麒麟以外に働きかける能力がないか。

 さて、ではたった十二人しかいない王を、天はどのくらい細かく見ているのでしょう。
 戴が荒れても白雉は落ちず、そのことについて「現状が、泰王驍宗の意図ではないと天が知っているから、驍宗から天命を移さない。」と、琅燦や李斎らは考えていました。(そして、異例づくめなので、それが今後続くのか不安も持っていました。)
 けれど私は、天は王の意思など、汲み取る術がないか、汲み取る気がない、意思を分かっていてもそれによって王を評価しない、天には結果が全てである、と考えます。


  例として短編「華胥」の前采王(砥尚)が挙げられます。彼は邪な意思で政治を行わなかった。「良い国を作ろう」と懸命だった。しかし方法が間違っていたため国は荒れ、結果麒麟が失道の病に罹った
 どこまでも善良な砥尚は失道で麒麟を失う前に自ら片を付けましたが、そうでなくてもいずれ采麟が死に、自身も命を落としたでしょう。
 さらに「遵帝の故事」。かつての才国国王が氾王の失道に苦しむ範国民を救うために出兵、国境を越えたとたん覿面の罪で麒麟とともにたちまち悲惨な死に方をし、国氏が斎から采へ変えられてしまったという故事です。
 天は民に仁道がもたらされることより、王が天綱に従うかを優先させる。 

 また覿面の罪は即座に発効する。もし天が王の意図を酌み取れるなら、遵帝に「範を侵略しよう」という悪心が生じた時点で罰してもよいはずです。意図を読み取れないので、行動、つまり結果だけを考慮する。
(国外出兵は善意が良い結果をもたらすとは限らず、国同士の戦になる可能性も大きいので、敢えて意図は考慮せず天綱通り線引きしないと大変なのかもしれません。原則は単純なほど強いし、例外は法則を崩す元凶。)
 いずれにせよこれらの例から、天は、その意図でなく結果で王を量るということが分かります。

 だから、驍宗の場合もあのまま涵養山の下に居続けたら、早晩泰麒は病み、二人とも命を落とすことになったのではと思うのです。
 それによって天は戴を正常な状態に戻そうとする。(そうならなくて本当に良かったです 涙)

 となると、問題なのは、泰麒の状態です。
 麒麟が、王の行いの結果を示すものさしだから。
 しかし、角がなく、麒麟の本性を失い、蓬莱に流されて戴国の記憶も、もちろん麒麟だという自覚もない。
 こんな状態の泰麒が、「ものさし」の役目を果たせるのか。つまり戴の民の苦しみを受け取って、麒麟らしく失道を病む、などということができるものでしょうか。

 さぞかし琅燦も泰麒を近くに置いて様子を見たかったでしょう。
 もう、私も琅燦の実験に乗っかって、とことんあれこれ考えてみようと思ったのですが・・・

 「黄昏の岸 暁の天」の6章4 蓬山の玉葉の言葉で解決してしまいました(; ̄◇ ̄)。


 「泰麒には角がない。あの器はすでに閉ざされておる。天地の気脈から切り離された麒麟が、生き延びることのできる年限はあといくらもないであろう、というのが上の方々の見解だの。自ら正されるのを待て、と。」

 さらに泰麒は、角を失って使令を暴走させ、蓬莱の人々の怨詛と指令が起こした出来事による血の穢れを一身に受けたことで、すでに病んでいました。捜索に当たった麒麟たちも、破滅が間近に迫っていると感じていました。
 事実蓬莱から帰還した泰麒は、意識もないほど病んでいました。

 つまり「泰麒の角を斬った」時点で阿選や琅燦の企みは長く続かないということです。
 角を斬らなければ、泰麒の使令を抑えられず、謀反は失敗する。角を斬れば泰麒は長生きできず、天によって新たな王が誕生してしまう。
 驍宗を無力化し、阿選が善政を敷こうが民を苦しめようが、泰麒の角がない限り長続きはしないのです。

 天の仕組み、巧妙です。侮れません。天の定めた王と麒麟による人の世の統治は、十二国記の世界では覆せない法則のようです。

 私はシリーズ全体を俯瞰的に読み通して、このような考えに至りました。よし。
 しかし、作中の人々はそうはいきません。尚隆や六太でさえ、天意を度々蓬山に問い、長い経験から天が何を許し何を許さないかを導き出さねばなりませんでした。ましてや琅燦は、本当に試すしかなかった。

 それにしても、天は、これほど巧妙でありながら、なんと限定的にしか働かなことでしょう。
 天は王と麒麟だけを見る。王の意思は酌まない。王の行動により起こる結果だけを見る。結果は麒麟の状態に現れる。極論すれば、麒麟の状態だけを見る。以上。

 王は麒麟にリンクしているだけで、麒麟の状態によって自動的に生きるか死ぬか決められてしまうではありませんか!
 限定的だからこそ、覆す隙が無いのかもしれません。
 「遵帝の故事」のところでも少し書きましたが、限定的で単純な法則ほど崩すのは大変そうです。天の理に隙や矛盾を生じさせず、琅燦のような誰かに盲点を突かれるのを防げる。 
 限定的に働くので、琅燦は限度を試す他なく、尚隆六太コンビは限度を測るために、手間をかけ苦労している。天よ、大らかさもゆとりもありませんね。

 それなのに、琅燦の出自である黄朱の民は、天の摂理を掻いくぐって、自分たちの里を、天の理の外ともいえる黄海で築いている。
 その辺が、考え出すとまた辞められないポイント w。 まだまだ天で色々楽しめそうです(^^;)

 さて、それはさておき、ここで本質的なことに触れたいと思います。
 私が、本筋のストーリーや主な登場人物の言動についてほぼ触れずに、天の設定についてばかり(でもないけれど)こだわっているのは、十二国記が本当に優れた物語だからだと思うのです。
 ストーリーや登場人物の思い、行動、それらを存分に楽しみ受け止めたからこそ、その物語を彩るディテールをこあれこれ考えたくなるのです。
 これからもそれは続けるつもりです。
 でも、やはり十二国記、特に最新刊「白銀の壚 玄の月」のテーマについて、きちんと触れておきたいと思うようになりました。
 ですので次は、きちんと「感想文」を書こうと思います。

つづく

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