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【十二国記 感想】⑦ 王は「神」ではないということ

ネタバレあります


 OH MY GOD! などと寒いダジャレを思わず放つようなタイトルですが、そもそも十二国記の「神籍」「神獣」という言葉が曲者です。
 それ以外「神」という言葉はそれほど出てこない気がします。麒麟を通じて王を選ぶのは「天」です。天勅を王と麒麟に授ける儀式で最初に刻まれる世の始まりにも、「天帝」が乱れた世を憂いてリセットし、「条理をもって天地を創世し綱紀をもってこれを開かん」とあります。

 十二国記の頂点にあるのは、天もしくは天帝。神という言葉はあまり出てきません。
 そして王は選ばれて紳籍に入るのですが、やはり私たちが思うような「神」という存在にはなりません。与えられるのは不老不死の体と、蓬莱に(多分崑崙にも)渡る力だけです。異世界に渡る力は「仙」である国の三公にもあるようです。

 全知全能になるとか、神通力や千里眼が備わるとかでは全くありません。神として、超越した精神力になれるわけでもなく、みんな人間としての悩みを抱えたまま王でいます。
 新しい王として国に下っても、その立場には敬意を表されるかもしれませんが、皆を恐れさせ従わせるような人知を超えた力はありません。雷を落とすとか笑。だから、登極したばかりの王は皆古参の廷臣たちに苦労し、結局自分の「人間力」と政治的手腕で道を切り開くしかない。廷臣たちだって、不老不死ですしね。

 ちょっと自分が王という立場になることを想像してみました。不老不死、一国の王という富と権力、わーい・・・いや、王でいる限り、国や民のことをきちんと治めなければならない。多少は息抜きもできるでしょうが、生きるのはただ「国のため」。しかもず――――――――――っと。期限なし。公人というのは、そもそもあまり自由気ままにはできません。先の見えない未来永劫ず――――――――っと、自分を評価し続ける天と民、臣の目にさらされながら国と民だけのために生きる。定年なし!辞められないし、失敗は死。

 できますか?永遠の命を与えるから、(部長として)永遠に会社のために働け(と社長に言われる)。社員は不幸にしちゃダメ、部署傾いても死ぬよ・・・無理無理、嫌です。普通に仕事頑張ったら、定年という見通しが欲しい。人生、先の見通しが必要ですよね。老後は少しゆったり暮らしたいw。社畜ならぬ国畜(ー ー;)

 いかに長期政権の王様たちが超人か分かります。延王は国の小間使いだと言い切っているし、宗王とその家族は旅館を経営するのと同じ気持ちでやっているのでは?範と恭の王も飄々と王様稼業を割り切っているみたいだし。漣の王様にも独特の「王様観」があります。そういう自分なりの視点が持てて、よほど自分の性分に合っていなければ続かないでしょう。そうでなければ・・・
 短編「帰山」を読むと、柳の王様は切れ者で、大王朝を予感させる光輝を持った国を作り上げ、120年続かせたようですが、急に玉座にいることに倦んでしまったことを感じさせます。頑張ったけれど燃え尽きてしまったのでしょうか。王様であることの先の見えなさに絶望してしまったのかな?
 その国の有様を見た尚隆も、「王は道を必ず知っているのにもかかわらず、違うと分かっている道に踏み込んでしまう瞬間がある」と感じる。自分にもそんな瞬間が来るのだろうか、どうしたら止められるのだろうと自分の心を疑ってみる。

 私は、この柳の国の王様の方が、「人」として普通のような気がします。
 本当に「神」なら、神は時間を超越する、過去と未来も飛び越えたり行ったり来たりもするでしょう。永劫の時間も苦にしない。時間なんていう概念もないのかもしれません。失敗するなどという可能性すら思い浮かばないのでは?だって「神」だから。
 永遠の時間を生きるには、「限りある命」を生きる我々には想像を絶する精神の在り方が必要でしょう。

 「人が神になる」とか「われは神である」なんて、やばいじゃんw

 「黄昏の岸…」から、天とは、ということを考え始めた私は、(それ以後ず―っと考えているのですが笑)最初、「天」は人間というものを分かってないよなぁ、と思っていたのです。
 上に書いたように、神様は人間を分かろうはずもなさそうですし。
 「人間の心のまま不老不死の神のようになれ」なんて、そりゃ精神のバランスを崩して当たり前、どうしてそんな不可能なことをさせるんだろう、必ず王はいつか王であることに倦んでしまうのでは?と考えていました。

 けれども最新刊まで読んで落ち着いてから、「では天はどこまで人の世の治世に関わればいいのか?」と考えてみたのです。戴の失敗を起こさないために。

 王が失敗しそうになったら何らかの天啓を下してアドバイス?王を思いのままに操った方が楽。王が気づけない悪事や悪人を、魔法の水盤にでも映して見せる?そんなことなら民に直接天罰下す?もっと言えば、王なんか置かずに天が役人や民にに直接命令を下せば過ちなんかなくなるのでは?麒麟を通せばできそうです。
 以前の感想④で私は、「天は王以外に興味を示さないか、働きが限定的で、王と麒麟以外に働きかけられない」と書きました。実際仙籍の人や一般の民に天は何もしないのですが、できるとしたら?

 うーーーーーん。天意に背けば覿面の罪みたいのが、みんなに当てはめられる。でも覿面の罪で命を失った「遵帝の故事」のようなことの線引きはとても難しいですよね。悪意どころか善意の結果。
 結局教条的に、罪を犯した人の真意は一切酌まずに罰を下すしかない気がします。ケースバイケースで「この人はこう、あの人は・・」とは、とても天にも面倒はみきれないでしょう。
 もしくは一昔前の、超細かいアホみたいな校則のようなものが次々できてしまう。

 それはもはや恐怖政治と同じ。情状酌量なんてものは入る隙もありません。人は一切自分で考えることをやめ、何でもかんでも天にお伺いを立てる。(その結果すごく細かい規則が次々できる)そして人は天罰を受けないことだけを考えるようになる。何という殺伐とした世界。「神」の名のもとに、人が人として考えることをやめる、そんなことはあってはならない。

 そこで「人がかかわる余地」が必要となる。やはり人が人として考えながら国を治めていくしかないのでは?治められる民とは、心があり、分かっていても過ちも犯してしまうこともある「人」なのだから。

 そう考えると、安定した国づくりのために無限の寿命は与えるけれど、それ以外王に一切特別な力を与えない、人間としての王に国を治めさせ、天は口を出さない(もしくは出せないシステム)というのは、実によくできた仕組み、「天よ、分かってんじゃん」と言いたくなってきました。(上から(^_^;))

結局、人の世を治めるのは人である。

 天は最初からそれしかないと分かっていたのではないでしょうか。
 それを前提に、もう一度天綱を考えてみたいと思います。

 「風の海 迷宮の岸」で、驍宗と泰麒が天勅を受ける場面の中に「公地を貯えてはならぬ、それを許してはならぬ」という項目があります。
 「風の万里 黎明の空」で陽子が遠甫に民がもらえる土地や家、里の数・単位・測り方などを教わる場面では、陽子が「大綱の地の巻に書いてあったのは、これだったのか・・・」と言います。つまり大綱には、国の民が必ずもらえる土地や家について決まりがある(天が定めている)ということです。
 その陽子に遠甫はこう言います。「最低限の土地があり、最低限の家がある。ちゃんと働き、天災も災異もなければ、一生飢えることなどない。民はみんな最低限のことを国からしてもらっている。それで本当に一生恙なく暮らせるかどうかは、実は自分の甲斐性にかかっている」と。そして、陽子(王)がすべきなのは、「天災を起こさぬよう水を治め地を均し自らを律して少しでも長く生きることだ」と。

 つまり王がすべきことは限られている。王が限られた役目を果たせば人は自分で生きられるようになっている、民の全部を背負っている気にならなくてもよい。

 王には王の限られた役目が、民には民の役割がある。そして国からもらった(天の定めた)土地を分を超えて貯えてはならない。(これはだいぶ緩いようです。土地を耕す以外にも商人や工匠なども必要でしょうし、人に運用を任せるところなのでしょう。)

 また、王は兵をもって他の国を侵してはならない。

 さらに遠甫によると、国には中央には首都、その周りに八州があり、州公が治めることと、租税の取り方も決められているようです。国の枠組みも十二の国が同じであるように天が定めています。(税制については官吏の恣意が入る隙があるという欠点もあるようですが、人が作柄などをみながら運用せよ、ということでしょう。)

 あとはなんといっても子供を授かる仕組みでしょう。これも遠甫の教えから。
 「子供を願うためには夫婦が同じ里にいなければならない。そのためには同じ国に戸籍がなければならない。」国籍が違うと里木に子を願う帯を結べないのだそうです。しかし遠甫は「戸籍を取得せねばならん。」と言っていることから、単に戸籍(私たちの感覚でいうと、紙切れ一枚w)の問題で、子供を授かる資格が得られるようです。夫婦として籍を入れるのも、もただ子供を授かるためだけと割り切られていますね。
 けれど、天は親の人柄を見て子供を授けるのだとか。夜に子供の魂が抜け出て天帝に親の報告をするという言い伝えがあるようです。それについて陽子は遠甫に「宗教的なことか?」と尋ねると遠甫は「修道的」だ、と答えます。修道的というのは、人が自分の身を慎み修めることですよね。それができない人には、子供は授からない。

 子供を持つことについて、なぜこのようなことを天が決めるのか。
 例えば子供を単なる働き手にさせない。子供はかわいがってくれる両親がある方がよい。子供を単なる労働力としかみなさない、愛情をもってきちんと育てる意思や環境のない者は子供を望んではいけない。
 つまり、次にも書きますが「分を越えたことをしてはならない」ということではないでしょうか。子供を愛情をもってきちんと育てられない環境や人柄で、子供を持つことを天が許さない(現実世界もこの仕組みが欲しい)

 このようなことがシリーズの中に天の決めたこととして散見されます。
 ここから考えると、人は人によって治められるべきだけれど、人には「欲」がある。それを越えないように天は、絶対に守るべき大枠を決める。(ほかの国を侵攻しない、土地を貯えない、育てられない子を持たないなど)
 天は、人が分を越えたときに、世が乱れると考えているのではないでしょうか。そこだけは絶対的な枠組みで固めてしまう。
 たとえ戦や天災がなくても、人は生きていれば病気や死別、出来心も起こせばば心のすれ違いなどもある。悲しいことは必ず抱えて生きねばならない。それが人ということだから、天はそこまで救済しようとしないし、できるはずもない。だからこそ、必ず防げる不幸の元凶だけは防ぐ。
 分を越えた欲というのは、人が自分で(特に王様がほかの国を欲しくなったりすると)止めるのは難しいです。子供を産む産まないも、他人はなかなか口出しできませんw。それに体質で産めないということも回避できそうです。

 人が「分を越えない」大枠を決める。身の丈に合うものは必ず与えられ、努力は報われる。それがきちんと人々に適用されるには、運用の仕方が問題になるが、天は運用はしない。運用はケースバイケースだから人が行うしかない。

 なかなかよくできた仕組みです。けれど、王が荒れたり空位である期間が長いなど、その時代に生まれてしまった人にとっては不運としか言いようのない欠点もあります。でもこれが天の考える「人を不幸にしない」ベストな世の治め方なのかもしれません。長いスパンで見れば。

 蛇足になりますが、楽俊が陽子や祥瓊に教えた、天に関わりのあることを挙げておきます。 
 陽子に問われて、「子宝を願うなら天帝、豊作を願うなら堯帝、水害を逃れるなら禹帝、妖魔を逃れるなら黄帝、とする人々もいるにはいるが、普通は神頼みなどしない」「洪水を防ぐには王が治水をきちんとすればよい、冷害などで飢饉にならないよう王が穀物を管理する、試験の合格やお金が貯まるなどは本人がどれだけ努力したかの問題、お願いして何になる。」
 祥瓊には、寺と仏教は山客が伝えたことを教えています。つまり異世界の宗教。

 「黄昏の岸~」の李斎と玉葉の会話に「天帝諸神」とか「上の方々」というやり取りがあり、天帝という存在は単一でなく、まとめて「諸神」とも呼ぶようです。庶民の間では堯帝黄帝など、名がつけられているのかもしれません。けれどもやはり「~帝」と呼ばれる方が普通なのでしょう。

 そんなシリーズあちこちの知識などを拾ってみても、やはり私たちが考えるような神頼みは、十二国の人々の意識にはほとんどない感じです。人は人の分を守って自分の力で人生を歩んでいく。
 仏教については私は詳しくないので論じらませんが、十二国記でメジャーではなさそうです。
 「白銀の壚 玄の月」で活躍する道観という組織も、宗教というより、困っている民のために実際に行動する人々という感じです。
 李斎は天が何もしてくれないことに絶望し、陽子に「人は自らを救うしかない、ということなんだ。」と言われ、泰麒にも「そもそも自らの手で支えることのできるものを、我と呼ぶのではないんでしょうか。」と言わる。そして戻った戴で巡り会った組織が道観。ふさわしい。

 「黄昏の岸~」や「白銀の壚~」に、戴の民がひっそりと祠に「荊柏(鴻慈)」という植物をお供えして祈る場面が出てきます。民は自分の救済を願っているのではなく「鴻慈を恵んでくれた驍宗の無事を願って」と書かれていました。天帝にそれを願う。なぜなら天帝は「王を選び、民に王をもたらしてくれる」存在だから。民自身を救ってくれるものとして扱われていません。

天には天の分が、人には人の分が。

 人も人の分を越えてはならないが、天にもその分を越えることを期待はしないのですね。

 最後に、「黄昏の岸 暁の天」での李斎の行動に触れます。
 蓬山で「角のない泰麒は長くない、自ら正されるのを待てと言うのが上の方々の見解だ。」という玉葉に対し、李斎は「泰麒に何ができるかは問題ではない、戴にとってそれは唯一残された希望の光だ」と食い下がります。
  また実際に病んだ泰麒を再び蓬山に連れて行った際にも、西王母に「台輔に何を望んでいるわけでもない。奇跡を施すことのできる神々ですら戴を救ってくれないのに、どうして台輔にそれを望むことがあろうか、しかし、戴には光が必要だ、それさえなければ戴は本当に凍って死に絶えてしまう。」と泰麒の必要性を説き救済を訴えます。
 この李斎の行動によって泰麒は蓬莱から連れ戻され、病を祓ってもらった。
 本来天が与えた能力を失くした泰麒は、天にとってはすでに、機能しない「無用のもの」。救う意味はありません。
 しかし、李斎は「人間の心」を、天に訴えたのです。
 天が期待する能力がなくても、苦しむ人々にとって泰麒がどのような存在であるか。
 天は「枠組み」として設けた麒麟の機能がなくなれば、その麒麟を無用のものとしますが、その麒麟を「運用」する人間にとっては、また別の意味がある。
 そんな冷たい表現でなくても、李斎の心が天を動かしたと言ってもいいのですが、なぜ天がそれを聞き入れたかというと、やはり、天には判断できない「人間の心」というものを、李斎が天にさらけ出して見せたからこそ、天が納得したと私は考えたい。李斎に免じて、といった狭い意味での泰麒の救済ではなく、戴の人の心を鑑みて、ということだと思うのです。

 そして「白銀の壚~」の終盤で、延麒六太が、李斎の手を拳で叩き、「・・・よくやった。本当によくやった、李斎」と言いながら、最後李斎の手を軽く握るシーンがあります。しみじみいいシーンです。李斎、本当によく頑張った。うんうん。泣。
 感想⑤で、「白銀の壚~」の中心は、苦難に生きる名もない普通の人々だ、と書きましたが、李斎は(名もないというと語弊がありますが)、苦難に立った時の人間の生き方そのものです。苦しみを耐え抜いた戴の多くの人々の象徴としての李斎。

 王の話をしていたのに、李斎にそれてしまいましたw
 まあ、結局このお話は「人間のお話だ」という、それだけのことを長々書いた結果、たどり着いた李斎なのですがw

 それにしても、西王母は天の方として、「天仙玉女碧霞玄君」つまり玉葉とはどういう方なのでしょう。天側?それとも元は人だったのが仙に上がったのか。
 我々の思ううすぼんやりした「天」でなく、玄君という窓口があり、西王母も実際に招聘できる、あまりに具体的で実在感がある天なので、余計に天とは何か、具体的に知りたいし、不思議さは消えないのです。ということで


つづく

 



 

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