見出し画像

愛されたいという願望は自惚れの最たるものだ。

かれこれもう、4年くらい恋人がいない。この期間中、誰かを好きになったこともあるし、頑張って出会いを求めたこともある。しかしどれも恋人という関係性に発展することはなく、そのほとんどがぼくの心からフェードアウトしていった。好きという感情は、どのようにして生まれて、そして育まれていくのか。自分の心の中の出来事なのに、未だにわからない。むしろ歳を重ねるほど、難しい存在になっていくような気がする。

いいかもと思う人がいても、そこまで気持ちが盛り上がることもなく、ダラダラと連絡を取り合う関係が続く。そこから先の未来を想像したときに、どうしても「俺なんてどうせ」という一言が付いてしまうから、なかなか先に進むことができないのかもしれない。イケメンというわけでもないしスタイルがいいわけでもない。さらには、個人事業主だから金銭的に安定しているとも言いづらい。そんな自分のことを客観的に見たとき、「そりゃ愛される資格なんてないよな」と思ってしまう。

恋愛なんて利害や損得をロマンチックに包んだだけだろうとひねくれたことを考えてしまうし、見た目やお金よりも大切なものがあることは分かっているけど、その大切なもので勝負をするには弱すぎるような気もしてくるし。「ちょっとだけ意識改革してみようかな」とか「自分磨きしてみようかな」って考えることもあるけど、ゴールのない努力は続かないし、そもそも何をどうすればいいのかも見えてこない。

もっと自分らしく生きたいと思う反面、「自分らしさって何?」という疑問を頭の中の自分に投げつけられて足踏みしてしまう。もっと人生楽しく過ごしたいと思う反面、「楽しいと感じることって何?」という疑問を頭の中の自分に投げつけられてぐうの音も出なくなってしまう。過去にぼくのことを好きになってくれた人は、一体ぼくの何を好きになってくれたんだろう。ぼくのどこに惹かれたんだろう。

愛されたいという気持ちは自惚れの最たるものだと、ある哲学者が言っていた。これに近いことはずっと昔から思っていて、人は誰かに対して何かを求めがちだけれど、本来は何かを与えていくことが大切なんじゃないかって。

どうして好きって言ってくれないの?
どうして分かってくれないの?
どうして最近会ってくれないの?

どうして、どうしてって相手にばかり求めてしまうけれど、恋人は自分を写す鏡だから、実は相手にばかり非があるわけではなかったりする。少し振り返れば「あぁ最近の自分は、少しわがままが過ぎたな」とか「相手に負担かけ過ぎてたな」って思えるかもしれない。「好きって言ってもらえないのも納得だな」というところまで気づけたのなら、相手に何かを求めるのはやめて、自分から与えてみる努力をすればいい。

もちろん人と人の関わり合いなので、与えたものに対して100%見返りがあるわけじゃない。人によっては、与えた分よりもっと求めてくるかもしれない。そういうときは、やっぱりさよならを一つの答えとして置いて、与え合える人を見つけるのもいいんじゃないかなと思う。

愛したいと思っているうちは、実は大抵のことは頑張れて我慢もできる。でも愛されたいと思うようになったら、それはそれまでの相手の優しさだったり愛情だったりに甘えて、自分を過大評価してしまっていることなんじゃないかな。「自分は愛されるべき人間だ」なんてことは、決して胸を張って言えるものではなくて、ぼくは人を愛せる人間でいたいと思う。誰かがぼくを好きでいてくれる以上に、ぼくは誰かを好きでいたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?