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蝉時雨はもう聴こえない。

今年もまた8月31日がやってきて、夏の終わりを迎えようとしている。9月に入ったって急に秋らしさが訪れるわけでもないのに、夏休み最終日のイメージがあるからか、昔から8月31日がくると「あぁ、今年も夏が終わったな」という気持ちになる。

8月も後半に差し掛かると、明らかに鳴いている蝉の数が減っていることに気づいた。ほんの数日前までは、まるで機械音のようにその音色を掻き鳴らしていたというのに。何年もかけてやっと地上に出てきた彼らは、およそ2週間という長く短い命を一生懸命に燃やしたのだ。愛をめいっぱいに叫んだのだ。

ベランダには、裏返しのままピクリとも動かない蝉が落ちている。彼は、求愛に成功しこの世を旅立ったのだろうか。それとも誰にも声が届くことなく、静かに旅立ったのだろうか。

多くの人は、蝉の鳴き声を「うるさい」と煙たがるけれど、ぼくはその鳴き声に儚さや切なさ、そして存在意義や愛情表現など、いろんな感情を感じてしまう。ぼくら人間だって声に出さないだけで、心の中ではうるさいほどの声を挙げているはずだ。

込み上げるものをグッと堪えたり、大人になれと自分に言い聞かせたり、言っても無駄だと思ったり、そうやって言葉をゴクリと飲み込んで、仕舞った先の心のキャパシティはあとどれくらい残っている?

今までと同じように何も言わないことだってできる。だけど、いつだってそれが正しい選択肢だとは限らない。周りの環境や関係、状況によって、自分が掲げる正義が変わることだってある。自分だって世の中だって変わっていくものなんだから、昨日言ったことと今日言ったことが変わったっておかしいことじゃないと思う。

自分にとって何が一番大切かとか、誰といるときが本当の自分かとか、そんなことはどうでもよくって、大切なものなんてきっとたくさんあるものだし、誰といるときも本当の自分で間違いないし、自分の存在意義を示すために無理に区別する必要なんてない。

誰に対しても同じように接することが良しみたいな風潮あるけど、人によって接し方を変えたり距離を取ったりしたって全然いいし、好きな人や嫌いな人がいたっていい。

蝉みたいにたった2週間の命というわけにはいかないから、長い人生の中で生き方について考える猶予がある。何も考えずがむしゃらに今日を生きるのも一つの生き方、数年後を見据えて計画的に生きていくのも一つの生き方だ。長い人生といっても有限であることには違いないから、できるだけ生きやすい生き方を見つけていきたい。

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