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『落ちるまで』第1回

 東京の夜風は今日も冷たい。
 きちんと防寒などしていないので冷気が首元から容赦なく侵入してくる。薄っぺらいジャンパーのポケットに両手を突っ込んで、僕はその場に立ち尽くした。
 あまり背の高いマンションではないけれど、眠らない街の夜景は僕の眼前に十分すぎるほど広がっていた。一際目立つあの建物は私立病院。消灯を過ぎてもナースは見回りを続け、当直の医師が控えている。真夜中に運ばれる急患の数や割合なんて知らないけれど、世間的に平和なこの街のことだ。そんなに多くはないだろう。
 僕は履いていたスニーカーを脱いで、脇に揃えて置いた。
 足の裏が、冷たい。
 そのまま飛び降りたって結果は同じなのに何故こんなことをするのだろう。僕は自分の死を見せつけるつもりはない。そう考えると靴を履きたくもなったが、やっぱり置いておくことにした。自殺は自殺らしくしないと――
「……お兄ちゃん」
 見下ろした先の道路はそれほど大きくもない。深夜ともなれば車の往来はほとんどない。彼がそこにいたのはホントに偶然だったのだろうか……いや、ではなかったとして何なのだ? 意味を与えるには随分とお粗末な結果にしかならなかった。
 屋上の縁に足をかけ、ゆっくりと上る。今更怖がることもない。目を瞑り、大きく深呼吸をする。
 そして僕は、小さな一歩を踏み出した。

          *

 気が付くと知らない男が僕を見下ろしていた。
「てめえ、よくも俺の愛車を台無しにしてくれたな!」
 あまり素敵だとは言い難い僕の人生でも、目覚めて一番に恫喝されたのは初めてだった。悲鳴を上げようとするも喉がカラカラで大した音が出ない。
「こっちは被害者だってのに……自殺なら自殺らしく屋上に靴でも揃えとけ!」
「あ、あの、病院ですので」
 背後から非難の声が上がって、彼は席に着く。そこでようやく僕は状況の確認に動いた。
 病院のベッドの上だ。今までここで眠っていたらしい。身体のあちこちに包帯が巻かれていて、心電図とか酸素マスクとかいくつかの機械がつながっている。パジャマ代わりの浴衣がはだけていたので、僕は怪我をしていなかった左手でそっと襟を引き寄せた。
 そう言えば怪我の割に痛みが少ない。ショックのせいか薬のせいか、それとも痛覚の神経までいかれてしまったのだろうか。
 面会者用の椅子に腰かけている男には本当に見覚えがない。一つ言えるとすれば、その人は知らないおじさんというよりも知らないお兄さんと呼ぶべき年齢のようである。
「大丈夫?」
 そう聞いてきたのは先程も男に声をかけたナース。僕が頷くと、先生を呼んできますとかなんとか言いながら逃げた。いや、この状況で二人きりにさせるなよ。
 とりあえず目の前の彼に歩み寄りを試みる。
「お兄ちゃん……誰?」
「……まあ、通りすがりのお兄ちゃんだな」
 にべもない返事だった。が、ここで「俺はお前の兄貴だぞ」なんて言われたら、僕は自分の記憶喪失と兄の人間性を疑わなければならないところである。よかったのか悪かったのか。
「お前、何で自殺なんかしたわけ?」
「え?」
「え、じゃねえよ! お前が飛び降りた先にちょうど俺の車があって、車は大破でお前の方は助かった。ていうか、車がクッションになって大した怪我でもないらしいぞ」
 そうだ、僕はマンションの屋上から飛び降りたのだ。そして図らずもこの人を巻き込んでしまったらしい。
「空からガキが降ってきたって説明しているのに警察は最初、交通事故だと思い込んでさ……まあ、車の壊れ方が上からドスンなのはちょっと調べりゃすぐに分かったみたいだけどな」
「……ごめんなさい」
「謝るぐらいなら飛び降りるなよ」
 不良みたいな口の利き方で至極まっとうなことを言う。
 確かにそうかもしれないけれど、飛び降り自殺が見ず知らずのお兄ちゃんを巻き込んだ末に未遂で終わるなんて思わない。僕はこういう形で他人に迷惑をかけるつもりはなかったのだ。
「……家庭の事情?」
「へ?」
「いや、お前の保護者が現れないから俺が付き添う羽目になってるし、自殺の理由はそこら辺かなと」
 そこ突っ込むんだ。と遠慮のなさに感心しつつ、僕は間違いを指摘する。
「会ってるよ」
「はい?」
「お兄ちゃんが、僕のお母さんに」
「……はあ?」
 確かにお母さんは僕の元に駆けつけなかった。が、それは駆けつける必要がなかったからだ。
「さっきの看護師が、お母さん。このところ夜勤が続いてずっと病院にいたんだよね」
「あの看護師? 何で黙ってるんだよ」
「仕事モードに入ってたからか、それか、お兄ちゃんが怖かったんじゃない?」
 さっきの逃げ出し方からして後者ではないだろうか。
「交通事故の被害者ならともかく、自殺未遂を起こした子供の母親だったら名乗りづらいだろうし」
「……僕ちゃん、意外とえげつないことを言うな」
「お兄ちゃんが先に聞いたんでしょう」
 着の身着のまま飛び降りた上に母親がだんまりを決め込んだため、僕の身元はまだ割れていなかった。お互いに自己紹介をするような状況でもなし、呼び方が「僕ちゃん」と「お兄ちゃん」に確定した瞬間である。
「とにかく、さっきのが母ちゃんなんだな?」
「え、うん」
「じゃあ損害賠償はあの人に請求すればいいわけだ」
「……へ?」
「お前がやらかした後始末だよ」
 そうか、車を壊されたお兄ちゃんは被害者なのだ。
「でもお母さんには……お金、払えないと思う」
 だんまりの理由が前者、つまりは「仕事モードだったから」というのも十分あり得る。ウチは母子家庭で、お母さんはとにかくバリバリ働く人だった。経済的にも精神的にも働かなければ生きていけない人なのだ。
「俺には関係ない」
 彼は素知らぬ顔で椅子にもたれ、脚を組む。
「お前にも関係ないだろ、どうせ死ぬつもりだったんだから」
「でも……」
 続く言葉が見つからない。と思ったら、お兄ちゃんの方が先に探し当てた。
「お前、生きてるもんな。思い詰めたら自殺に踏み切るわ母親や俺にまで申し訳なく思うわ、根は真面目なんだろうよ」
 そしてお兄ちゃんは、ふと思いついたようにニヤリと笑って言ったのである。
「何ならお前が賠償するか?」

                              〈続く〉

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