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「ものかき」になりたかった昔のぼく

伝えたいことがあるわけじゃない。けど、文章を書くのが好き。

すてきな文章を書く仕事がしたいなぁ、と小さいころから思っていた。
けれど、気付けばもの書きとは程遠い仕事をしている。大きな挫折をしたわけでもないのに、程遠い仕事を選んだ。

それでも、すてきな文章を書きたいという想いはある。何にあこがれているんだろう、と不思議に思うくらいには色あせていない。



人生の中で小説が占める割合は大きいほうだと思う。『ぼくらの七日間戦争』を授業中の机の下で読みながらワクワクしたり、『DIVE!!』を読んで青春と水しぶきのきらめきを感じたり、『獣の奏者』を読んで世界と生き物の美しさに感動したり。

年齢が上がるにつれて、小説にとどまらず、ことばに興味は広がっていった。

嫌なことがあっても、本を開けば違う世界に連れて行ってくれる。悲しいことがあっても、優しいことばが寄り添ってくれる。感謝の気持ちは伝えればかけがえのないものになる。
小説が好きだし、エッセイが好きだし、詩が好き。手紙をもらうとあたたかい気持ちになるし、大切な人には手紙を送りたい。

ぼくの中での「すてきな文章」は、手帳にはさみたくなるような、ふとした瞬間に触れたくなるような優しいことばたち。その人の熱やぬくもりが込められたことばが好きなんだなと思う。

そんな文章を自分の手で書けたらどれだけ良いだろう、どれだけ素晴らしいだろう、と書く仕事に漠然とした興味を持つようになっていた。

けれど、その想いが行動にうつることはなかった。


小説を書いたことはないし、ライターを目指してもいない。就活で出版社を受けたわけでもないし、編集者を目指す気もない。だけど、文章を書きたいと思っている。
あこがれを目指す気がないのか、と自分のお尻をたたいて、本を読んだり、講座に応募しようとしたりしたけれど違和感は拭えず、ぼくの望むものがこの先にあるような気がしなかった。

なのに変わらずことばへの想いはある。ぼくは何にあこがれ続けているんだろう、と本当に不思議だった。



答えが出たのは最近のこと。ぼくはことばを書きたいわけじゃなかったんだと思う。

同じ事実を前にしても、生まれ育った環境や世界観が違えば、意見は異なる。あなたと同じ人間はいない。だから、あなたが考える価値がある。
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』山田ズーニー

山田ズーニーが書いているように、ことばは人の世界観が目に見える形になって出てくるもの。
なにを素晴らしいと感じ、なにを悲しいと感じるのか、そんな捉え方をあらわしている。絵でも写真でも音楽でも、感性が関わるものには世界観がにじみ出る。

ぼくはこの世界観のほうに強い興味がある。

ことばについては好きにとどまるのかもしれない。強くあこがれていたのは、もの書きではなく、もの書きが持っている”世界を切り取る自分だけのファインダー”の方なんだと思う。

熱を持ったことばを紡げるような、だれかに寄り添うことばを紡げるような、そんなしなやかな世界観を持つことにあこがれているんだ。

そう気付いてから、なぜそれでも「書くこと」が好きなのか少しわかった気がする。
世界観はことばをつくり、ことばは世界観をつくりループしていく。だから、下手でも読みにくくても「書くこと」で、今日だけのぼくの世界を切り取って残しているんだと思う。だから、伝えたいことがなくても書くんだと思う。

こんな考え方してたのか、こんなこと思ってたんや、あんなこと感じてたんか。と、そのときの世界を振り返って、前に進んで。

そうやって、あこがれに近づいていくんじゃないか。


自己満足でも下手くそでもなんでもいいから、自分のために、今日の世界を切り取って書き続けたい。そしていつの日か。ぼくの世界観がすてきなものになって、そこから生まれるものが大切な人に寄り添ってくれればいいなぁと思う。

長年そんなことを求めていたのか、と書きながら気付いた蒸し暑い日々。自分のために書くのも悪くないんやなぁ。

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