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【読書記録】 村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて: クィア批評との対話』 の序章を読む。

本記事は、日本におけるクィア批評の古典的名著、村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて: クィア批評との対話』(単行本 2005年, 文庫化 2022年)の読書記録である。

同書は専門分野でいうと、ジェンダー・セクシュアリティ論に属し、その分野の中でも「クィア批評」に関する著作である。ここでの「クィア批評」とは、同書に解説を寄せている田崎英明の言葉を借りると、以下のように言える。

「性差や異性愛といった規範が作用する場から見えない欲望を引き出し、新たな解釈を生産すること」(裏表紙より)

これを引き受け、自分なりにパラフレーズすると、「ある社会には、常にすでに性に関する規範があり、そうした磁場に置かれている文芸作品から、その磁場の最中にいる我々が、その規範から逸脱する欲望を新たに読み取り、そうした規範を書き換えること」となる。

同書では、そうした「クィア批評」の精神をもとにした作品読解と、その精神に関する理論的検討がなされている。今回の記事は、同書で鍵となる「クィア」が論じられている「序章」を読んだ記録である。

読書記録には、章全体の要約と、気になった記述に対するコメント・疑問点などを書いていく。これらは基本的には暫定的なものであるため、再度の読み込みによって加筆修正を行う予定だ。また個人的な備忘録という側面が強いことを先に記しておこう。

序章(要約)

クィア批評とは、既存の性規範に抗いながら、文芸作品らを読む、見る、批評することを通じて、既存の型に落ち着くことなく、それら規範や型を新たに書き換えていく運動である。

ここで用いられている「クィア」という語は、歴史的に同性愛者に対する侮蔑語であり、「変態」という意味が刻まれている。これをあえて当事者が好戦的に用い、かつ特定のアイデンティティを指さずに「非規範的な性」という否定神学の形で使うことにより、規範的異性愛に抵抗する者たちとの連帯を可能にしたのだった。

ただ「クィア」という語が、常に社会の文脈に依存しているため、今後「クィア」という言葉がこれまでのように使えるかはわからない。現在アカデミズムの外では、「クィア」という語はほとんど「ゲイ」と同様に用いられており、「変態・奇妙」という意味は漂白されてしまっている。単にセクシャル・マイノリティそれぞれのアイデンティティを認めさせる運動だけでなく、規範的異性愛自体の再考を迫るような緊張感は、現在の「クィア」には見受けられず、規範に対する抵抗は、また別の名で行う必要があるように思われる。

○クィアとはなんなのか

・「クィア・アイデンティティとは、自らのアイデンティティに疑問をもつアイデンティティだ。」(p.13)
→LGBTQのQに対応する「クィア」であるが、元々「奇妙な」「変態」という意味で使われていた蔑称である。また「クィア」は、他のL(レズビアン), G(ゲイ), B(バイセクシュアル), T(トランスジェンダー)のアイデンティティとは少しニュアンスが異なり、「アイデンティティ(自己同一性)」で含意されている、ジェンダーやセクシュアリティを核とした自己観や、自己の一貫性に対して批判的である。ただクィアは両義的であり、「だから、アイデンティティを持たない」というわけではないのだ。村山は、こうした状況を「自らのアイデンティティに疑問をもつアイデンティティ」という自己言及型の矛盾として表現しているように思える。なお矛盾型で表現しなくとも、新しいアイデンティティ観として「アイデンティティとは行為遂行的な蓄積物、またはプロセスである」と打ち出すこともできるだろう。

・連帯としての「クィア」
→セクシャル・マイノリティのあり方は多様であり、何か本質的な共通部分を取り出すことはできない。しかし「規範的異性愛をずらそうとする態度」だけは共有していると言えるだろう。このように「〜〜である」ではなく「〜〜ではない」という形、つまり「非規範的な性」=「規範的な性ではない」という「否定神学」的な表現にすることで、セクシュアリティ・マイノリティを同じ集合に位置付けることができるのだ。言い換えるならば「否定神学」を用いることによって、差異を否定する同一性の連帯ではなく「差異を維持しながらも、共通の敵に対する連帯」ができるということだ。そうした余事象的な集合に対して「クィア」という語が当てられているのだ。

・「あらゆる規格外のセクシュアリティを包みこみながら、同時にクィアという語がまず一義的にゲイ&レズビアンを指してきたことは、間違いない事実であり、概念としてのクィアの特殊さは、この指示作用の二重性にある。」(p. 16)
・「実際、単婚的一対一ヘテロセクシュアル関係を享受している表面的な「ノーマルな」人間が、あらゆるセクシュアリティの自由と平等を旗印にして「われこそはあらゆる人と同様にクィアなり」と宣言しても、たんに趣味の悪いジョークでしかないだろう。『クィアは定義できない』というハルプリンの断言は、あくまで、この言葉がまず同性愛者を意味するという慣習のもとで意味を持つ。」(p. 17)

→「クィア」という語が、明瞭に定義を持たないが故に、それが規範的異性愛の側に悪用されることもある。例えば「僕たちも、君たちと同じで”変態”だからさ」と差別側が蔑称を使ったり、「人類みな”変態”なんだよ」と全体を均質化されることには抵抗する必要がある。「クィア」が、これまで同性愛者を指していたこと、また彼らが社会の中で規範的異性愛とは非対称的な位置付けを与えられていたこと、そうした歴史が刻印されている言葉であることを忘れてはいけない。その文脈を無視し「人類みな”変態”なんだ」と簡単に当事者性を薄められてしまい、何も緊張感の持たない語として使われてしまう可能性に対しては常に敏感になる必要がある。

※備考・コメント
・ここで社会学者である森山至貴が提示する「クィア」の定義を参照したい。まず森山は、1990年代に生まれたクィア・スタデーズの潮流に対して、それら研究群は以下の三つの視座を持っているとまとめる。(森山, 2017, 125-127頁)

①差異に基づく連帯の志向
②否定的な価値づけの積極的な引き受けによる価値転倒
②アイデンティティの両義性や流動性に対する着目

その際、「クィア」という語は、それぞれの視座に対応して以下のように表現される。

①「非規範的な性(を生きる人)全般」
②「性に関する社会通念を逆手に取る生き方(をする人)」
③「性に関する流動的なアイデンティティ(を生きる人)」

今回の村山に対する私の整理は、森山の分類でいうと③→①→②の順番で該当すると言えるだろう。

・まずは整理分類(LGBT)して、それぞれの主体のあり方を認める。その後に「その整理で終わるわけではない(Q+)」と展開する。この「二段階」で捉えることの必要性があるように思う。これは「アイデンティティ・ポリティクス」から「クィア・ポリティクス」という歴史的展開をなぞることと似ている。また教育の現場でも、いきなり「クィア」を教えても、その真価は伝わらないだろう。まずは「枠組み」をインストールさせて、その「枠組み」を踏み台にして、その「枠組み」の不完全さと向き合わせる必要があるように思える。(cf. 森山至貴, 能町みね子 『慣れろ、おちょくれ、踏み外せ: 性と身体をめぐるクィアな対話』pp. 60-61)  また浅田彰はインタビューにて、この「アイデンティティ政治→クィア的展開」の構図を、ジャック・デリダが『ポジシオン』で説明している脱構築の基本形式「転倒→位置づらし」の構図になぞっている。(cf. 浅田彰「アイデンティティ・ポリティクスを超えて--『構造と力』文庫化を機に」)

○本質主義/構築主義

・「イヴ・セジウィックは、同性愛を考えるにあたって、構築主義か本質主義かという議論の座標を、普遍化/局所化に切り替えることを提案している。」(pp. 18-19)
→「本質か、構築か」の議論とは、認識論的な真理、つまり同性愛には生物的根拠があるのか、または同性愛とは社会によってラベリングされたものなのかをめぐる議論である。それに対して、セジウィックは論点を移動させ、より政治的な文脈に移し変える役割を果たした。
→疑問点としては、この時の「普遍化/局所化」とは具体的に何を指すのか、である。これは、セジウィックの『クローゼットの認識論』を読む中で明らかにしたい。

・「クィアな実践とは、本質主義的アイデンティティを完全に自由に乗り越えていくというよりは、それらに結びつけられている所与の性的欲望のレパートリーを手にして、それらを自前の快楽に作り変えていく作業だといってもいいかもしれない。」(p. 20)
→アイデンティティが社会的に構築されているとしても、すでに「アイデンティティを指す概念が存在する以上、[それぞれのアイデンティティ同士の]差異が存在すること自体を全面否定することはできない」だろう。このように既存の型とその型破り、既存の型と型の移動、そうした動きがクィアな実践と言えるだろう。

○読むことと同一化

・「一見固定した性的枠組みが機能している場所に斜めの線を引き、アイデンティティの機能を書き換えていくことは、[ラベルを当てはめる作業とは]また違った作業である。課題は、見ること、批評することを通じて、いわば動詞的に『クィアする』とでもいうべき介入を通じて、見えない欲望を引き出し、新たな解釈を生産することなのだ。」(p. 21)
クィアとは「これはクィアである」と、ある対象に対して名付けることではなく、ある読みの運動に対して「クィアしている」というべきものなのである。絶え間ない読みの運動がクィアなのだ。

・「正典の再解釈という制度的な要求に、新たな視点がすばらしい兵器を提供したからだ。そういう意味では、クィア「批評」は極めて保守的な方法であるし、われわれはそれを忘れるべきではない。」
→この指摘は、デリダの持つ保守性と同じであろう。デリダは西洋哲学史に対する脱構築的読解、西洋哲学史の正典を読み変える読解を行ったのだが、そうした振る舞いは、正典の解釈共同体の内部でのみ可能であり、そうした共同体の持続を手助けしている点で保守的であるということだ。また英語圏の文学研究において「読み手と書き手を確保できている領域」だから出来ることでもあるのだ。
→この時、正典の解釈共同体の中にある一種の中心性、ある解釈の権威性、支配性というのがあってはじめて、それをシロアリのように食っていくような読解ができる。中心と脱中心化の緊張関係があってはじめて、脱中心化が意味ある運動として現れる。

○クィア批評の終焉?

「『クィア』がことさらに特殊だった時期はすでに終わりかけており、クィア批評が投げかけた諸問題は、これからはまた別の名で問われていくのかもしれない。」(p. 25)
→現在の英語圏では、単に「ゲイ」=「クィア」となっており、もはや「クィア」は奇妙な存在としては扱われておらず、クィアを用いてアイデンティティ・ポリティクスが行われているようにもなっている。このように90年代の時のような緊張関係は見ることができなくなっており、そうなると「クィア」が持つ可能性は狭まってしまうだろう。
→また「クィア」という語は、あくまで英語圏で使われているものであって、日本語圏に輸入できるものなのかは疑問が残る。ただその名を使わなくても、「クィア」が持つ精神性は引き継げることができるように思え、日本の文脈の中でどのように展開できるのかを模索したい。





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