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死と向き合って生きる


古代ギリシア
では【人】のことを【死すべき者】の意味であるbrotoiもしくはthanatoiと呼んでいた。したがってギリシャ哲学において早くから生と死は表裏一体と捉えていた。

そして、ソクラテスとその思想を継いだプラトンは、霊魂の不滅を唱える。

霊魂は肉体とは異なる次元に永遠不滅に存在するもので、肉体は死ぬと無に帰するが、霊魂は死後肉体を離れて新たな次元で永遠の幸福に生きると説いたのだ。(wikipedia)

これは仏教の輪廻転生にも通じる。

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誰も死の世界より戻ってきたものはなく、それ故死後の世界への期待と畏怖する気持ちとが混合するのだろう。

死んだら生き返るの?


古代エジプトのミイラづくりも、イスラム教やキリスト教の復活の日も、死からの脱却だ。仏教も前述したように輪廻転生という考えも死から脱却し、新たに命を授かり生きることを望んでいる。

死後の世界はあるの?

死が怖いのは、存在していた自分や愛する者が無となるから。
死んだあと、極楽へ行けると分かっていたら、怖くないのか。死ぬとき痛くないなら怖くないのか。
いや感情として、愛するものがいなくなり、残された自分が寂しくなるのが怖いのか。そもそも「怖い」自体が感情だ。

近年、グリーフケア(グリーブとは喪失感)への関心も高まり、人間社会研究や、人間科学として大学の学部にも組込まれている。

私個人としては、自己の死への恐れよりも、近しい人や愛する人を喪失すれば、立ち直れなくなってしまいそうで怖い。

結局、死は何?

昨今、書店をのぞけば、さまざまなエンディングノートがよく売れている。思い出を書く欄もあり、葬儀に際し誰誰を呼んでほしい、また〇〇葬にしてほしい、そして遺産としては〇〇があって、それらをどのように分配してほしい、、と記入する。

このエンディングノートを書く目的は、専ら遺された者へのメッセージであり、争族回避であるが、同時に自己を振り返り自己の死生観の再構築する機会ともなる。


エピクロスは「死はわれわれにとって何でもないことだ。われわれが存在している間は死は現存しないし、死が存在すればわれわれは現存しない」と述べている。


生あるものは死へ向かう

【ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず】

鴨長明の方丈記は、無常観をあらわしている。

【川の流れが止まらぬように、何ものも、生まれ滅び、同じ状態ではいられない】

生への執着をなくすのがいいの?



盥(たらい)から

盥へうつる

​ちんぷんかん

​小林一茶の句


生まれたときは桶に浸かり

死ぬるときも桶に入れられるという意味、

この呆気ない明るさが心地よい。

ぐるぐる考えが回ったが、

知らないことは怖い
死んだことないから怖い
でも

今を生きる
懸命に生きる

それしかないのだろうとおもう。


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