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「地産地消」って死語だっけ?

最近の自粛の影響で一次産品の需要が低迷している。自粛が徐々に緩和されていっても、完全な回復にはかなり時間がかかるといわれる中で、ちょっと古い言葉かもしれないが、地産地消を改めて考えてみた。


これまで、昔からその土地で生産され地域の人々に愛されてきた野菜や魚などが、生産者や流通業者、行政の努力により地域外へ発信されてきた。地域内でのみ消費されていたものの魅力が地域外の人々に伝わり、首都圏のいわゆる高級店で扱われることが増えた産品もあるだろう。それにより需要が高まり、価格が上昇することで、収入が増加した生産者もいるはずだ。
いわゆる「ブランド化」が目指される流れが大きくなった。


2004年には中小企業庁が、地域の特性を生かした製品の魅力を高め全国あるいは世界で高い評価を得ることを目的として「JAPANブランド育成支援事業」を創設し、2005年には長い歴史の中で育まれ特定の地域に定着した製品に対する便乗商品を法的に排除しそれらの商品を育成・維持するために「地域団体商標制度」が施行された。

地方の自治体も、首都圏のターミナル駅や百貨店において地域産品のPRイベントを行ったり、地元の生産者や流通業者と首都圏のバイヤーとを結ぶことを目的とした商談会の場を設けたり、地域外への発信に努力している姿が見受けられる。


ブランドの確立を助けることで地域外へのわかりやすい発信を促し当該商品が地域内で再評価されるきっかけにもなるが、今までのようには手に入らないほどの「高級品」になってしまった例もあるだろう。
有名なわかりやすいブランドを冠するところまで到達していない商品でも、その品質の高さから、高く買い取られて首都圏の市場や高級店に運ばれ、地元にはあまり残らない、残ったとしても地元の人が日常的に買える値段ではない、といった状況のものもある。


私が仕事で扱う鮮魚や蟹も、高い価格で競り落とされ、流通の過程を辿って最終的には首都圏の市場や高級店へと運ばれていくものがかなりあるようだ。生産物に高値がつくことは生産者にとっては喜ばしいことであり、高価格でも欲しいと求める消費者やお店があるのなら、そこに届けられるのは自然の流れだ。
その一方で、市場に出回る価格が高すぎて古くからその食材に慣れ親しんできた地元の人たちがそれを食べられなくなってしまったものもあるだろう。

生産者や行政にとっては、値を上げること、または値下がりを止めることがブランド化の目的である側面も強いため、目的に叶うのであれば、喜ばしいことである。
しかし、ここで私が懸念しているのは、手に届かなくなるという状況だ。


たとえば、うちのお店で年配のお客さんとよくある会話↓


お客さん:「このカニいくら?」
うちの店員:「1杯3000円です」
お客さん:「3000円!?昔はこんなの発泡スチロールの箱いっぱいに2000円とかで売ってたじゃない!なんか高級品になっちゃって。じゃいいわ、また今度にする」

みたいな。


こうやって地元の産品が口にできなくなっていく現象は、私の周りだけではないだろう。売る側としても本当に残念だが、今の市場環境だとおそらくそのお客さんが求める価格でその蟹を提供できることは今後ないかもしれない。

「みんなが日常で食べていたもの」が「一部の人だけが食べられるもの」になっていく。
値段は変わった。けど、消費者の感覚は変わらない。「これくらいの値段だろう」と思って買いに来た価格が、その人にとってのその商品に対する価値だからだ。
地方のものが地域外で高く売れて喜んでいる人の多くは、その流通に直接に関わった人たちだろく。魚のように生産高が増えているわけではない、むしろ減る傾向にある産物(天然の生産量については減少傾向にあることを前提に)については特に、首都圏に流れた分、地元で消費される分が減ったということになる。値が上がるということは、今まで食べていた人たちがその値段で食べられなくなったということになる。


自粛の影響で、首都圏の飲食店の多くが仕入れを止めざるを得なくなり、完全な回復がしばらくの間見込めない今は、価格が下がった地元の産品がもっと地元で消費されるチャンスである。安くなった高級魚が一時的に地元のスーパーに並ぶようになったをニュースで見ることがあるが、その美味しさを知らずに育ってきた人たちは、それほど興味を示さない様子も感じられる。それらの高級魚も、一昔前は地元で日常的に食べられていた食材かもしれない。
地元の人間がその味を忘れ、愛着をなくしたものは、今後誰が生産を続け、付加価値の向上を目指せるのだろうか?


もちろん、地域の産品が首都圏へ流れることを否定するわけではない。
私のお店も、県外の個人のお客様のお取り寄せや料理屋さんの仕入れのおかげで成立している側面がかなりある。したがって、自分の現状と矛盾することを書いているような葛藤もある。
ただ、その流れが強すぎると、地域でその産品を守る力が弱くなってしまうのでは?という多少の危機感みたいなものを感じたりする。


需要を促進し、価格を上昇させるために、地域外への発信に注いできた力を、今一度地元の人々にその魅力を伝え、食文化を継承するエネルギーに振り替えることはできないか。
地域外の人にとって、その産品の代わりは他にある。

地元の人で昔から500円で買ってきたものに2000円を出すことができる人はそう多くない。そこまでして食べる理由もないだろう。しかし、「食べたい」と思われなくなってしまってからでは遅い。だから私たち流通に関わる人間は、「食べる理由」のある人たちを、もっと大切にしなければならない。最終的に、その土地で生産されたものを敢えて選ぶ理由があるのは、そこに住む人だけだろう。

とりわけ私たちが扱う鮮魚など、「新鮮」などという言葉で評価され「新しさ」が重視される商品に関しては、時間をかけて遠くに運ばれるより、地元で消費される方がずっと評価が高まるものもあるはずだ。
(いま流行の「熟成」と言われる方法もあるが、現時点ではまだ「新しさ」の方が評価が高いと考えれば。)


今日ちょうどニュースでこのような話題を目にした。

セブンイレブンが、自粛の影響で需要が低迷た富山県産の食材(ホタルイカ・シロエビ)を使用したメニューを北陸三県と新潟県において販売するというもの。また、富山県の学校給食でホタルイカが提供されることが決定したという報道もあった。

こうした取り組みは、需要の低迷から生産者を守ることを目的として行われる側面が強いだろう。それに加えて、産地の人たち、子どもたちが、その味に慣れ親しむ機会にもなってくれればと願う。生産者のためだけの一時的な施策ではなく、これからもこの地域でその食材が育まれていくためには、食べるという体験、食べてきた思い出が残っていることが重要だろう。


地産地消は形だけのスローガンではない。
「消費する理由」の根ざすところへの供給が見逃されないように、そしてそこに根付いてきた食の文化と伝統を守るためにも、ちょっと古くて言い慣れなくなってきたが、「地産地消」を死語にしてはならない気がする。

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