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今朝起きて気づいたことがある。
昨日までは無かった感覚が今日新たに生まれた。

どんな感覚かと言うと、大きな質量をもつ重たい鉛が心に巣食っているような感覚。
胸のあたりが重たく、何かがずっしりと腰を据えている。

私には新たな課題が課せられた。
この鉛のようなものの正体を暴かなければならない。
しかし、考えようとすると息苦しくなる。それでも考えなければならないから考える。
考えれば考えるほど息苦しさは大きくなっていく。

思えば、ここ最近を振り返ってみると私はいつもと様子が違ったかもしれない。気にも留めていなかったけれど。

半ば強迫的に続けていた、趣味という名の義務がこなせなくなった。
たとえば日々の筋トレ、ストレッチ、読書、資格の勉強、美容に関すること…etc
中には、できなくなって数週間が経つものもある。

それに、前のように姿勢を正して歩くことができなくなった。笑顔を作ることもできなくなった。
前は無理をすればできていたのに。

食欲も明らかに減っている。食事は3割も食べられれば良いほうだ。

朝は起きられない日が続いている。以前は誰かに起こされなくったって早朝には自ら体を起こして日記を書いていた。
今は、起こされても起きられない。また新たな日を迎えてしまったことに絶望し、気分はというと沈みきっている。現実から逃避するためか、起きられない、いや、起きたくないのだと思う。

そして、自らの生について考える時間が増えた。
どうして自分は生きているのだろうか。
世の中の何の罪もない人々が死んでいく中、どうして自分はまだ生きているのだろうか。自分こそ、優先的に死ぬべきなのではないか。
私に生きているほどの価値がどこにあるのだろうか。
なぜ、自分はまだ生きているのか。

こういった感じで生について延々と考え続け、堂々巡りなのである。

しかしながら、人間は多かれ少なかれ皆こういった思考を巡らせているのではないか。
なにも自分だけが考えているわけではない。したがって、私は普遍的な事柄について考える大勢の中の一人なのである。何も特別なことではない。

今書いたことも、全てが"気のせい"なのかもしれない。実は何てことのない一時的な変化なのかもしれない。気にするに値しないのかもしれない。


ただ一つ確かなのは、罪責感と、自らを傷つけたい気持ちが存在しているということである。

そもそも私は他責というよりかは自責傾向の強い人間だと自覚している。昔からの悪癖で、常日頃から自分を責めるのにはもう慣れてしまった。

しかし、そういった小さな自責の数々とは別で、大きくずっしりと重たい罪責感の王様のようなものが玉座に腰を据えているのだ。

何と表現したらいいのか分からないが、とにかくこれまでの小さな自責たちとは格が違うのである。
自分の存在そのものへの罪責感、とでも言うのだろうか。存在あってこその一つの事柄への自責、これを小さな自責と表現しておこう。
一方で、罪責感の王様は存在そのものを責めている。いわば自責感の根のようなものである。

次に、自らを傷つけたい気持ちについて。
これは実は罪責感の上に成り立っている。
自らの存在そのものへの否定があるからこそ、自分をめちゃくちゃに引き裂いて跡形もないくらいに傷つけてやりたいという気持ちが生まれる。

もはや気のせいとは言えないのが、以上の二つの感情である。

ネガティブな感情も、ただ存在しているだけならば全然構わない。ただ、暴れ始めると恐ろしい。
これらの感情が暴発すると、死の衝動に繋がるからだ。
これ以上にないほど自分を責め立て、存在を否定し、自分を傷つけたいと願う。これも度を越すと死にたいという思いが生まれる。正確に言うならば、「死ななければならない」だろうか。
ここにいてはいけない、自分は今すぐに死ぬべきだ、死ななければならない、よし、死のう。
そして凄まじい行動力を発揮し、死へ向かう。

なぜこれほどまでに自分の場合の死へのルートを知っているかというと、これまでの経験からしてそうだったからだ。
自殺未遂をしたときも、過量服薬をしたときも、どちらも同じパターンを辿った。
つまり、今もこの道を辿る可能性が限りなく高い。

私は今まで生きてきた中で、自分を大切にできたためしがない。
しかし幸いなことに、最近どうやって自分を大事にするのか学ぶ機会を得られている。そのため、方法としては理解できてきたつもりだ。

だが、そもそもこんな存在を大事にしていいものなのだろうか。そんな疑問が湧いて出てきている。
生きているほどの価値も無い存在を大事になんてしていいのか。むしろ、ぐちゃぐちゃに傷つけて殺してやるくらいが妥当ではないか。

この世で一番憎んでいるのは他でもない自分だ。
傷つけてやりたいと思うのは当然ではないのか。

他者に訊くことでもないと思っているので、誰かに問うたことはまだない。しかし、依然としてこういった疑問は消えてくれない。


結局、鉛が突然心に生まれた理由は分からない。
だが、正体はもしかすると罪責感なのかもしれないと気づいた。

明日になったら自然と消えてくれるものだとありがたいのだが。

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