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千利休の虚像と実像①

明けましておめでとうございます。東洋大学茶道研究会です。

新年最初に取り上げる話題は、茶道の大成者とされている千利休です。
教科書などでは、茶道といえば千利休、時代で言えば桃山文化が注目されます。しかしこれまで見てきたとおり、茶道の歴史を考える上では、桃山文化よりも東山文化と元禄文化の2つのほうがはるかに重要です。

このようにまとめると、利休を軽視しているように誤解されがちですが、そうではありません。一般的に利休の偉業とされるものが、実はそれ以前から日本に存在したり、逆に江戸時代以降に広まったものだったりというだけのことで、利休には利休の歴史的意義が存在します。そこで、同時代的な視点で利休の実像を追いながら、茶道における利休の本当の偉業を確認していきましょう。

・利休の本業

最初に、お茶の話をする前に利休の職業について考えてみようと思います。というのも、利休が茶人であることは当然のこととして語られますが、専業茶人が登場するのは三千家の成立からで、当時は様々な身分・職業の人が趣味として茶を嗜んでいたのです。つまり、利休にとって茶人というのは本業ではないのです。

では利休は何を生業としていたのか。それは商人です。利休の俗名は田中与四郎と言いますが、本来は「自由都市」堺の魚座を経営していました。ここで注目したいのは、利休が経営していた座というものについてです。座とは、本所(武家・公家・寺社)に奉仕・経済的負担をする代わりに、原材料の購入独占権と製品の販売独占権を与えられた集団のことを言います。つまり利休は既得権益を持っていたのです。

昨年のお話の中で、茶室の平等性・閉塞性は利休以前の日本社会に根付いていたものだということを指摘しましたが、逆に利休は権力と結びついて他の商人を排除する立場にいたのです。後に利休は豊臣秀吉と対立することになるわけですが、これについて「権力者に対抗する芸術家の意地」のような解釈をされることがあります。

しかしよく考えてください。本当に権力志向を持ち合わせていないのであれば最初から隠遁生活をしているはずで、そうであればそもそも豊臣秀吉との対立など起こらないですよね。千利休事件については今後詳しく触れる時がくると思いますが、少なくとも利休も権力志向を持っていたからこそ秀吉と対立したと言えそうです。

・利休と茶

それでは、本題である利休の茶道について考えていきましょう。利休は1522年に誕生します。1538年に茶人である北向道陳に入門します。これまで何度もお話ししていますが、当時の茶道は流派茶道ではないので、利休が道陳以外にも茶道を習っていた可能性は十分にあります。

当時畿内で勢力を保持していたのは三好長慶の一族でしたが、1568年に足利義昭が上洛し将軍に任官すると三好氏の勢力は減退し、翌年義昭は信長に堺の支配権を与えます。信長と関係の深かった堺商人は今井宗久・津田宗及・千利休(当時は千宗易)の3人で、後世「天下三宗匠」と呼ばれることになります。

利休は織田政権の頃から羽柴秀吉との仲が深く、1582年に本能寺の変で信長が自害すると、秀吉の御用商人として活躍していくことになります。
翌年には有名な妙喜庵待庵を造営しています。現在、待庵の茶室は二畳間で、「利休のわびの極意」とも評されますが、近年の研究では、利休が造営した当時の待庵は四畳半であった可能性が指摘されています。以前お話ししたように、佗茶は元禄文化で流行したことを考慮に入れれば、この説は妥当だと考えられます。

今回はここまでです。次回は、桃山文化の茶道がどのようなものだったのかを明らかにしつつ、利休の実像に迫っていきます。

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参考文献
今日庵茶道資料館『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013
芳賀幸四郎『千利休』吉川弘文館(人物叢書)、1963
中原修也『千利休 切腹と晩年の真実』朝日新聞出版(朝日新書)、2019
柴裕之編『図説 豊臣秀吉』戎光祥出版、2020

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