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彼女が泣いていた理由

そのキーボード音のすごさを一体どう表現したらいいのでしょう。

それは私がそれまで夢中で読んでいた「死刑執行人サンソン」(安達正勝著)のルイ16世処刑のくだりを途中でやめてしまったくらいで、カフェの店じゅうに聞こえるほど高らかに鳴り響いておりました。

私はそのけたたましいPC音の主を見ようと、得意の横目で隣を盗み見ました。

それは歳の頃30代半ばくらいの女性でした。化粧は薄いけどなかなか上手で、服はペールグリーンのセーターに黒のタイトスカート、派手ではないけど洗練されたその様子は、都会暮らしをそれなりにスマートにこなしていそうな感じでした。

その女性がさっきからものすごいキーボード圧でPCに叩き込んでいたのは、おそらくは恋愛系、いや官能系のハウツー本の原稿でした。

なぜなら、PC画面には一面ピンクで統一されたパワーポイント画面、そしてその中央には「既読無視されたときの対処法」「終電を逃すテク」「カラダでカレを骨抜きにする裏ワザ」といった、いかにもな見出しがキラキラと舞い踊っているのが見えたからです。

私と彼女の間には彼女のものらしい大ぶりのバケツトートがくわっと口を開けており、その中には資料らしいフランス書院の本が数冊、その他にもいろんなものが詰め込まれていて重そうでした。
そういえば何年か前、毎日毎日18禁乙女ゲームのシナリオばかり書いていた頃の私のバッグの中身がちょうどそんな感じでした。

憧れの声優さんの収録現場に立ち会えるというので引き受けたのですが、なにせ書く方も声を入れる方も18禁仕事ですから、お互い大きな声では言えず、現場で交換する名刺も互いにそれ専用の別名義という徹底したマスカレードっぷりでした。

彼女は懐かしい思いでその様子を盗み見ている私に気づかず、次から次へと繰り出される画面にきわどい文章を入れ込んでいきます。きっと仕事のできる人なのでしょう、タカタカタカタカという軽快なキーボード音とともに卑猥な文章を打ち込んでいく彼女の爪は綺麗にネイルされていて、その凛とした横顔は今年書く仕事を全くしなかった私にはとても眩しくうつりました。

ところが。

彼女はぴたとキーボードを打つ手を止め、いきなり両手で顔を覆って泣き出したのです。

ああどうして私はいつもこんな場面にばかり出くわすのでしょう。予想外の展開に私は静かにうろたえました。え? なに、どうしたの? だってあなた、今の今まで意気揚々と仕事してたじゃん。

10年前だったら図々しくそんなふうに訊ねられたかも知れませんが、さすがの私も分別がついてしまったようで、そう私だって自分が外で泣いているときに知らない人に声をかけられたら絶対いやに決まってます。
私は自分がさっきから彼女を見ていたことを悟られないよう、再び手元の「死刑執行人サンソン」に視線を戻しました。

ちっとも頭に入りませんでした。

今や私にとってはフランス国王ルイ16世や王妃マリーアントワネットがギロチンにかけられるよりも、隣のうら若き乙女の涙の理由(ワケ)を探るほうが大事件になっていたのです。

でも、その理由を知るには私に与えられた情報はあまりにも少なすぎました。彼女はそうやって私の心をかき乱しながらしばらく泣き続けていましたが、やがて始まったときと同じようにふいにピタリと泣き止みました。

まるで人形浄瑠璃の表情の早替わりを見ているようでした。

彼女はハンカチで涙を拭くと水のように透明な表情に戻り、そのまま何事もなかったように立ち上がって店を出ていきました。

ひとり残された私は当然ながら、しばらくのあいだ窓の外を見ながらぼんやりと呆けていました。

あの子なにがあったのかしら。
今日彼氏にふられたのかしら。
それとも、仕事がクソつまんなくて嫌気がさしてしまったのかしら。

考えれば考えるほどわかりません。

ただひとつだけ確実なのは、私はこの先どうあがいても、彼女の涙の意味を未来永劫知ることはできないということです。

店には坂本冬美の新曲『ブッダのように私は死んだ』がかかっていました。

すごい歌詞だわ。


















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