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希望を抱く度に絶望する

 おはようございます。
 名前を持たない私です。

 今日はこちらのタイトルについて話して行こうと思います。
 きっと勘のいい方、私と同じ体験をされている方なら既におわかりいただけていることでしょう。
――学習性無力感。
 学習性無力感とは、長期にわたってストレスの回避困難な環境に置かれた人や動物は、その状況から逃れようとする努力すら行わなくなるという現象である(Wikipediaより)

 さて、私は一昨年の冬から就労移行支援に通っています。そこでは往々にして認知行動療法が教えられています。こういった大勢が集まる場において、わかりやすい指標、実践できているかが第三者から客観的に見ても認知しやすいという点から、この手法が行われているのだと思います。
 明るく、他者と協力して、協調しながら、就労できるようになりましょう。だいたいこんなかんじです。私はその言葉を額縁通りに受け取り、実践しようとしました。けれどすぐに体調を崩していきました。
明るくなろうとするほど、もうころしてくれっ、と叫びたくなります。それをスタッフさんに伝えたこともありました。かえってきた言葉は………、
「でも毎日通所できているし、ちゃんとがんばれているよ。大丈夫」
 ………この言葉に救われる人だって、たしかにいるのでしょう。むしろ、そういう人のほうが多いのでしょう。しかし、私は静かに胸の底に沈んでいきました。支援者に話したって無駄だなと学びました(よくないですけどね笑)。

 話はこれだけに収まらないのです。休職している間、体調がよくなったときはうんとやる気がみなぎっていろんなことに挑戦したくなりました。ノート術やらメモ術やら、マインドフルネスやらジャーナリングやら、目のつく限りのいろんなことをやっていきました。やりたいことリスト100だって作りました。その結果、身体が泣きました。
『理想を洗い出し、そこに近づくために計画を立てましょう、スモールステップを踏みましょう』
 いろんな書籍に書かれていることです。いろんなYouTuberが発信していることです。
 理想を洗い出すことに、傷つき体験が想起されてしまうなんて、誰が想像したでしょうか。
 瞑想することで、反芻思考の自責と自罰に押しつぶされてしまうなんて、誰が想像したでしょうか。
 誰もいってくれませんでした。やってみてから、私は気づきました。

 学習性無力感というのは、何も学習する気がないことではないのです。
あまりにもネットに出回っている言葉は乱暴です。
 こんなものが、こんな苦しくつらいことが、『気の持ちよう』『まずはやってみることが大事』で済むわけないのです。そこにも上がれない私のような人だっているはずです。

 ではどうすればいいのか、私にはまだわかっていません。
 挑戦しようとする度に崩れ落ちる。この悲しみを掬い上げる方法を見つけてあげられていません。私が出来るのは、身体が泣いてしまったときに、「ああ、怖かったんだね。ごめんね」と自分の右腕を何度もさすってあげることくらいです。

 希望を抱かないように、薄い絶望の中で息をする。それでもいいんじゃないかなって思います。それでこの身体が発作的に泣いてしまう数が減るなら、すくなくとも今はこれでいいと、心の底から思います。

 無気力になるのもラクではありません。
 ここにたどり着くまでの生存戦略を、どうか責めないであげてください。

 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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