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対話と議論は違うものだろうか

Safeology研究所の山川です。

前回の藤平さんは、対話の専門家ということで、対話と議論について感じていることを書いてみようと思います。

最近、対話のワークショップに参加することが多いのですが、そこでは対話には共感が重要で、そこから新しいものが創られるということが良く語られています。一方、議論は論理の積み重ねで、対話の場にはなじまないという雰囲気が強いです。

でも、本当にそうでしょうか?

私は、大学院時代は物理学分野で活動しており、素粒子や原子核を研究対象としていました。そのころ物理の研究では、大学院生が教授に議論をふっかけるのは日常茶飯事で、それが当たり前という環境で育ってきましたが、社会に出ると、それはかなり特殊な状況であることがわかりました。

物理における研究の議論は、物理的な概念を基礎にした論理の塊です。その議論では自分の主張が否定されることもあり、苦しくもありましたが、議論することにより、一人では考えつかなかった、まったく新しい視点を得ることができ、それが研究の進展に重要な役割を果たしていました。

特に物理分野では、主張していることの正しさは、実験等で確かめることができるので、大学院生が言おうが正しいと証明されることも頻繁にあるため、その意見は教授でもフラットに聞くという環境があります。

そういった環境なので、議論を積み重ねることにより、最初とはまったく違った新しい視点に到達できるのかもしれません。

この感じは、私の中では、対話により新しいものを創り上げるという感覚とわりと近いものがあります。対話では共感を使い、物理の議論では論理を使いますが、実は本質は共感か論理かではなく、その場が、どんな主張も公平に受け入れるかどうかではないかと思います。ただ、論理を使う際は「それが否定されることも許容されている」というという点が、対話と違う点かもしれません。

対話と議論の共通性、または、どこに本質があるかについては、まだ考え始めたばかりなので、コメント等がある方は(safeology.lab@gmail.com)までご意見をいただけると幸いです。

                文/山川 修(Safeology研究所 代表)

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