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そうだん、けつだん

悩みというものは人間の本質である。人類は他の生物よりも脳が発達し、複雑な思考が可能になった。その脳で文明を発展させてきたが、一方で日常の些細なことから人生まで、様々なことに悩みを抱えることになった。

悩みの解決策として、「相談」という行為がある。辞書を参照すると
相談…問題の解決のために話し合ったり、他人の意見を聞いたりすること。また、その話し合い。
とある。

日常の些細な悩みなら、自分でパッと決めるか、他人に合わせれば良い。(旅行先での食事なら違うのかもしれないが笑)今日の夕飯を「餃子の王将」にするか「サイゼリヤ」にするかなんて悩みは、勝手に決めて相手に提示するか、相手がうるさかったら合わせてやれば良いのだ。

しかし数年数十年を決めるような大きな人生の場合、そうもいかない。封建社会だった前近代、学歴社会・終身雇用・お見合い結婚だった近代と比べて、現代は自由になった反面、人生の悩みは複雑化し、もはや「相談」を生業にするようなコンサルティングという業界が発展している。進学先、就職先、結婚相手、資産運用、会社経営方針など、得意とする相談事は会社によって様々だ。

相談によって得られる効用として次のようなことが挙げられるだろう。
1.他人から情報を得られる
2.他人から許可・協力を得られる
3.他人から意見を得られる


例えば大学選びであれば、相談によって
1.大学事情に精通している方から「君のやりたいことであれば首都圏私立の〇〇大と地方国立の△△大が強いよー」
2.両親から「首都圏私立の〇〇大はは学費が高いけど行っていいよ」
3.塾から「△△大より〇〇大の方が君の得意教科の英語の配点が高いから良いと思うよ」
と言った言葉が得られるかもしれない。

相談によって1.情報や2.許可・協力を得ることは大切である。情報を集めることで最適な判断がしやすくなるし、自分一人の力では実現不可能なことの場合許可や協力を得ることは大切だ。しかし相談によって得られる3.意見に左右されてはいけないだろう。

所詮、他人というのはその人の立場と経験からしかものを言えない。この複雑化した社会で全知全能なんてあり得ない。
例えば大学選びだって塾や高校は高い偏差値帯の大学に進んでもらって合格実績を掲げたいのかもしれないし、親だってどっちでも良いと言うのなら学費の安い大学を薦めているのかもしれないし、はたまた有識者だって自身がその大学の出身者で、学生生活が偶々楽しかったから勧めているのかもしれない。

かといって他人への相談で1.や2.だけを聞き出すのは不可能だろう。いくら中立的な立場を心がけても、どうしても自分の立場や経験から基づいた意見を、時にはまるで事実のように述べてしまうものだ。

人によって言うことが違う時、相談者は混乱する。そしてまた別の人に相談する。また違うことを言ってくる。あ、今度はあの人に相談しよう。また違ったこと言ってる…
こんな風に相談のループに入ってしまうかもしれない。

結局、「決断」できる時というのは、誰にも相談しなくても自分の気持ちが固まった時なのだろう。相談をしているうちは、まだ自分軸がない状態。とりあえず何人かに相談して情報や許可・協力を得たら、一度自分で考える時間を置いて(日常から離れた何もない場所が良いかもしれない)、他人が言っていたことを1.情報、2.許可・協力と3.意見に分解して、情報を基に判断して、意見に対する回答を言語化したら、あとは許可・協力してくれる人の話だけ都合よく聞いて進めば良いのだと思う。

現代って自由だけど複雑で難しい。前近代とどっちが幸せだっただろうか。

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