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最期のハグを忘れられないのなら


やせ細った腕をぎゅーと抱きしめながら、肩越しでこらえきれなかった涙が溢れてくる。

どこかでこれが最期なんだとわかっていた。
絶対に泣かないと決めていたのに。
だってお母さんも泣くから。


空港に向かうバスの時間ギリギリまでお母さんのそばにいる。

この時ばかりは上京したことを悔やんだ。



「喪服を用意しておきなさい」

大好きだったお母さんのお葬式で着る服なんて、素直に用意できるわけがない。

きっとお父さんもこんなこと、娘の私に言いたくなかっただろうに。

だってあの8階の東病棟に行ってカーテンをめくれば、お母さんがいるのに。まだ、いるのに。

お父さんは知っていたのだろう。お母さんの命がそう長くないことを。もうこれがお母さんに会える最期の帰省になるということを。

私はお母さんとの最期のハグを、抱いた肩の骨の感触を、熱を、耳元に伝わる息遣いを、絶対に忘れることができない。 


最後に元気なお母さんに会ったのは私がニュージーランドに向かう福岡空港。出国の日が近づくほど、お母さんは涙もろくなっていた。今まで私の前で泣くことなんてなかったのに。私が海外に渡航したいと言い出した時、あなたには好きなことをしてほしい、と背中を押してくれた。でも本当は寂しかったんだと思う。


私がVISAを2ヶ月切り捨てて帰国したのはお母さんの身体に癌が見つかったから。久しぶりのお母さんとの再会は病院だった。すっかり痩せて、綺麗だったボブヘアーもショートカットになっていた。これから髪がどんどん抜けていくんだろうな…。そんなショックと同時に安堵感が私を襲う。本当に、会えてよかった。


その時すでに東京のホテルで働くお話をいただいていたから、せめて時間の許す限りお母さんのそばにいようと思った。
上京を辞める、という手段は私の中にはなかった。ここでやめてしまってはお母さんはハッピーじゃなくなるのはわかっていたから。



私は病気を知ろうとしなかった


悪性リンパ腫
血液の癌

私はお母さんの病気をあえて調べようとしなかった。図書館で血液の癌についての本を借りたことがあったが、一度も読まずに返した。ステージ●とか、余命●年とかも、知ろうとしなかった。知りたい、と思わなかったから。 

お父さんやお兄ちゃんは医療従事者で、私は何もわからない。途中でそれがいいんだと気づいた。

病気になる前のお母さんと同じように接する。お母さんはこの私のスタンスを気に入っていた。「パパに話すと怒られちゃうからさ」、と何も知らない私にこっそりいろんな入院中のことを話してくれた。私とお母さんは最期まで親友のようだった。

私は何をするわけでもなく毎日お母さんを訪ね、洗濯物を持って帰り、病室のベットで一緒にたくさんお昼寝した。時々お母さんの好物のコーヒーを病室に持って行った。(本当はよくないから、私はそれをワイロと呼んでいた)


上京してからは毎日お母さんのことを心配する日々が続いた。癌を治した人なんてこの世に何千何万といる。お母さんなら大丈夫。ずっとそう思っていた。


カーペンターズ / 青春の輝き

お通夜には間に合わなかった。
夜遅くにも関わらず、友達が駅まで迎えに来てくれた。優しさが染みる。


葬儀場に掲げられたお母さんの名前。


やだ、入りたくない


たくさんの友達が私の帰省を待っててくれてたのに、エレベーターの前で泣き崩れたのを覚えている。
中にはその日お誕生日だった友達もいた。しばらく連絡をとっていなかったのにも関わらず、みんな遅くまで私の到着を待っていてくれた。いまでも本当に感謝しきれない。

お母さんはたくさんのお花と一緒に、大好きだったカーペンターズの「青春の輝き」にのせて旅立った。お葬式の日は、偶然にもお父さんとの結婚記念日だった。


お坊さんがお母さんに付けた名前は
「美園」 (みおん)

枯れたお花を元気にするのが得意だったお母さんのことを、まるで知っていたかのようなお坊さんのお心遣い。それほどお母さんは最期までお花が似合う人だった。お父さんはいまでも毎朝この名前をお母さんの遺影によびかけている。

辛い抗癌剤治療も放射線治療も、本当によく頑張ったね。お母さんに最期に会ったときは癌が脳に転移していて、片目が開けられなくなっていた。

私が去年の夏に体調を崩して部屋で一人だったとき、お母さんはずっと病室でこんな孤独な思いをしていたのかと心から思い知った。その時私は自分が本当に弱いと思い知った。

2019年は本当にずっとメソメソしてて、いろんな面で自立できず、お母さんが亡くなる寸前もずっと心配をかけてきた。

お付き合いしていた人ともうまくいかず、お母さんが大変なときなのに彼のことで頭がいっぱいになった時期もあった。そんな自分が本当に大っっ嫌いだった。


最期のハグを忘れられないのなら


お母さんが亡くなってもうすぐ2年。


私はあの時より、前に進めているかな。


これまで仕事や他のこと、がむしゃらにやってきた。

出る釘は打たれる というが
たとえ打たれるとわかっていても怖がらず進んできた。


お母さんに
「あれ、うちの娘なんですよ。
だいぶせっかちでそそっかしいけど、とても楽しそうに生きてるでしょ。」

って天国でできた新しいお友達に自慢してもらえるような娘になりたい。
そう思ってこの2年走り続けてきた。


時々お母さんの写真を見返して涙が止まらなくなる日もある。

でも、少しずつ前を向いて歩いていると信じたい。


電車でお母さんぐらいの歳の女性が
赤ちゃんを抱っこしてるのをみると
胸がキューと苦しくなる。

料理上手のお母さんに甘えて全く作らなかったご飯を色々作ってみたりする。
そしてお母さんがつけた付箋のところのレシピを作ってみたりする。

きれいなお花が道端に咲いてると、写メってお母さんにLINEしたくなる。

将来の旦那さんに会わせたかったなぁとかも思ったりもする。

正直、後悔はたくさんある。

それでも

お母さんとの最期のハグを忘れられないのなら

その温かいハグを誰かにできるような人になろうと思う。

苦しみも喜びも存分に味わって、一生懸命生きようと思う。

その分、お母さんが最期にくれたような力強くて、優しいハグができる気がするから。

お母さんがくれた愛を、誰かに与えられる人に。

そんな優しくて、強い人に。


それがお客様でも、家族でも、友達でも、恋人でも、

たとえ見ず知らずの人であっても。


これが私にできる
お母さんへの恩返しだと思うから。

いつか自分がお母さんになったら、子供に
天国のばぁばのことをたくさん話そうと思う。



生まれ変わっても、
お母さんと家族になりたい。

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