生殖を介した『黄昏』の考察 ~クリスチャン・ボルタンスキー-Lifetimeより

国立新美術館にて開催されているクリスチャン・ボルタンスキーの回顧展より『黄昏』を考察する。

今回の展示において、『黄昏』はソケットで電気コードにつながれたたくさんの電球が狭い空間に置かれ(サンパウロで発表されたときは床だったようだが)、それが毎日3個ずつ消えていくというものだという。美術館に行ったにもかかわらず、なぜ「という」といった表現を用いたかというと、一度しか行っていない私にとってはその減りゆくさまは確認できておらず、また最初の方に行ったためその空間は大変明るかったからである。

最初は明るい状態だったものが、最後には完全に暗くなる。これは人生があらかじめ決められた死に向かって進んでいることを示している――そう、クリスチャン・ボルタンスキーは自らの作品を解説する。

しかし、私はこの作品に生殖の瞬間を見るのである。

すべて同じ方向を向けて並べられた電球。同じ方向へと流れる真っ黒のコード。狭い空間にこうやって並べられた理由、それは電力供給の都合なのかもしれないし、意図的なものなのかはわからない。だが、一点を見つめて進んでいくその様に、私は精子の走化性を重ねる。ただ、卵子に向かってひたすら進む、ヒトであってヒトあらざるモノ。光る電球は精子の頭部に、ソケットは中片部、そしてコードは尾部に――ふいに命を得た電球が繫がれたコードから解き放たれ、いっせいに目的へと襲い掛かろうとする幻想を錯覚したとき、我々はこの空間に飲み込まれる。

『黄昏』が『白いモニュメント、来世』に続く部屋にあったのも抽象的だ。『白いモニュメント、来世』はまあ、なんというか白い壁にピンクや青のネオンサインで「来世」と掲げられているだけなのだが、その真下に次の展示室への穴がぽかんと開いているのである。来世をすり抜けた我々が、人生の『黄昏』へと向かう構図。一人の人間が、死する前に来世を経験することは本来できないはずなのに、である。

だが、来世の向こうで我々は、大量の精子を目の当たりにする。その中には、(明かりのついた)生きているもの、(すでに消えてしまった)死んでいるもの様々だろう。見に行った時期によって、元気な精子がたくさん存在していることもあるだろうし、今後はすでにほぼ死滅していることになっていくのかもしれない。

そして、その真後ろで揺らぐ一つの電球に、私は卵子を重ね合わせざるを得なくなる。『黄金の海』と名付けられたそれには、『黄昏』と相反するように電球は一つしか有してない。ギラギラと反射する金色のエマージェンシー・ブランケットの上で揺らぐ白熱電球。わずかに香る干草のにおい。それが『黄昏』の真正面に存在する『黄金の海』だ。

ただ、最初に書かれた解説を見る限り、『黄金の海』は本来このような閉じられた空間として展示される予定ではなかったらしい。エマージェンシー・ブランケットが敷き詰められた部屋の中を通り抜けることで、我々に荒れた海を体感させたかったようである。個人的には、薄暗い部屋、揺らぐ電球の下を不安な気持ちを抱えながら通り抜けるのはさぞ魅力的であったような気もするが、何の因果かこの作品は誘われるようにしてここへと配置されることになってしまったのである。そういった偶然に、私は運命としての意味を見出す。偶然が重なりに重なり続けたもの、それが生命だと私は思うからだ。

精子とは、ヒトの元にしてヒトならざるものである。それは、元は我々の細胞の一つであったにもかかわらず、我々から離れ、そして別人に――我々には、もはや手の出しようのない「来世」を形成していくものなのである。


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