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人が文字を読みたがるのはなぜか

文字は言語を時間や空間を超えて伝達・記録するためにやむにやまれずして人類が発明したものである。ゆえに、文字は読みたいというのが人間の欲求として至極当たり前のことなのである。
普通に、当たり前に、伝達さえできれば、それで文字としての役割を果たしているというわけである。
ところがそこに”思い”というものをのっけたくなったのも人間である。
伝えたい!という人間の欲求は文字に森羅万象のかがやきを与えた。

文字はただの文字にして文字にあらず。


あ、ここで言う文字は漢字のこと。

書道という芸術を生み育んだ土壌は漢字文化にこそあるというわけだ。

気候風土、筆墨硯紙、老荘思想の哲学、

どれだ欠けても書道は生まれなかっただろう。


文字も墨の世界も宇宙そのもの。そんな視座からすれば、

現代における書の可読性云々の問題など取るにたらないことはいうまでもない。

”用”と”美”の相反する二面性を”書”の世界が包含しているというのは実に面白いこと。

がしかし、それゆえ書の在り方が歪んできたのも事実である。

戦後の習字教育において、文字の形というのは整っていなければいけないという強烈な刷り込みが行われた。”手本の通りに書くのがよい”は手本がなければ書けない日本人を大量生産した。結果手本があっても手本が見れない人間乃ち思考停止して見る力のない人間ばかりになってしまった。手本は用いようであるのに、文字教育というのはただ手本が与えられてばかりの受動的な学びばかりを提供してきたというのが悲しい現実である。


書道の本質というのは、読めるとか読めないとか、上手いとか下手とか、整っているとか整っていないとかそういうことではない。自己と向き合う人間のうつくしき葛藤ゆえに生まれるその人ならではの書きぶりというものは、単に癖ということで片づけられる代物はないということを、あなたは知っているだろうか?

多くのが日本人が『私は字が下手だから』と字を書くことを嫌悪しながらその生涯を閉じていく。

この現実は私はとても残念だと思う。


葛藤はだれのなかにもあるからだ。

きっとそこにうつくしさもあるはず。(としんじたい)

だとするなら、

そんなあなたから生まれるあなたの文字をうつしくないという権利が誰にあるというのか。


文字を読むのではなく、

文字を感じられる感性を。


目下の私のテーマである。


あー、なんだか熱くなってしまったな。

散漫な文章だし。

つぎはもうちょっと整理して書きます。

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