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8. 私が生きた人生

《3》

ここからは、私がいかにして、今の死に対するアイデアに辿りついたかについて話そうと思う。その目的のためには、私が私の人生をどのように過ごしてきたかをあなたに知って欲しい。

振り返ってみると、思っていた以上に、死は私の人生のあちらこちらにあった。しかし、自分の周囲で起きた死に対して、それなりの対応するには、私はある程度の年齢を重ねる必要があった。

一定の時間を共有した人々の死に直面した時、死に至る過程と向き合った時、私は理解した。チヒロ、祖父母、そしてタサカ先生の死だった。

若い頃の出来事を覚えておくのは実に困難だ。私の身に起こっていた出来事に対して、私はしばしば驚いた。遡ることで初めて思い出した記憶もあった。まるであなたがアルコール飲料を大量摂取した翌日に、友人からあなたの悪行を伝えられるようなものだ。

他の誰かの身に起きたように感じる私自身に起きた出来事。ゆくゆくは、あなたもそのような経験をする。それぐらい沢山、覚えていない過去が私にはあった。

そしてある程度の記憶があったとしても、それらがどんな物語であって、どんな因果関係があったかを、私は紐解かなければならなかった。

さらに言えば、その当時の私の感受性と語彙力では、それらの出来事から生じた大量の感情をきちんと受け容れることができなかった。どうにもならなかった感情の塊は、脳みその片隅に眠っていた。今回、それらの記憶に直面し、その時の感情に改めて向き合うことができた。


私が住んでいたキノカワは、あなたにとって、マエダのおじいちゃんの家である。私はあの町で育った。ご存知にように田舎である。娯楽と言えばテレビだった。車で出かけることもあった。居酒屋はあまりなかったが、スナックはたくさんあった。

バスは1日4本。電車は1時間に1本。コンビニやスーパーマーケットはあったが、商店街やショッピングモールはなかった。ユニクロもなかった。携帯電話ショップも家電小売店もなかった。

町のどこへ行っても、良くも悪くも、知り合いと出会うことができた。人口約2万人の小さな町だった。

私はそのような町で生まれ育った。キノカワの前田という地域に住んでいた。前田のマエダさんとよく呼ばれた。私とチヒロは、公務員である父親とフルタイムの主婦である母親の間で生まれた。

当時の世界を見ると、湾岸戦争が起こり、ソビエト連邦が崩壊し、日本はバブル経済を終えた。ということらしい。もちろん、私は生まれたばかりだったので、それらが起こっていたことは後で知った。

あなたにとって歴史かもしれないが、そのような時代に生まれ育ったのだ。


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