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目標だらけの学校教育(2)

◆こんにちは。小学校教員のねこぜです。前回の目標だらけの学校教育ではややも愚痴っぽく書き連ねてしまいましたが、少し具体的に解像度を上げてみたいと思います。参考図書に國分功一郎さんの『目的への抵抗』を用いていきます。


1.無駄をそぎ落とすことの功罪

 主張に入る前に、目標と目的の定義をはっきりさせておきたいと思います。
 目標とは、①そこに行き着くように、またそこから外れないように目印とするもの②射撃、攻撃などの対象。まと。③行動を進めるにあたって、実現・達成を目指す水準のことです。
 目的とは①実現しようしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。②倫理学で、理性ないし意志が、行為に先立って行為を規定し、方向づけるものであると示されています。
 こうしてみると、何だか似通っていますが、目的は抽象的でそれをより具体的に落とし込み、手段としていくものが目標であると考えた方がよいでしょう。つまり、教育の目的は教育基本法に示されている通り、(1)人格の完成(2)平和で民主的な国家及び社会の形成者の育成(3)心身ともに健康な国民の育成の3つであり、それを受けて(それを達成するために)学校教育では様々な目標が掲げられるようになるわけです。

 さて、コロナ禍によって「不要不急」という言葉が世界に広がりました。学校教育においても、不要不急を避けて教育活動にあたるよう要請されました。これまでの慣例が見直されたのです。要するに無駄の排除です。
 分かりやすい例として運動会があります。運動会そのものを中止にする学校もありましたし、表現運動をやめて徒競走だけにするとか、紅白に分かれて得点で競い合うことをやめたり、オンラインや観客数の制限を加えたりといった工夫と簡素化がなされました。従来通り決行した学校はおそらくないのではないでしょうか。
 ここで現場が考えたのは、何のために行うのかという「目的」です。運動会を行う目的を達成するために必要なことだけ行えればよいという判断です。ですから、得点は不要、観客も不要、応援団も不要、不要不要不要としてそぎ落としていきました。これには教員側も子どもとしても、そして保護者としても賛否両論ありました。「もう一種目増やせないか、表現も見たい」「従来通りの一日開催復活を」という意見もあれば「午前中で終わるので弁当を作らずに済むのが助かる」「観客が制限されたおかげで見やすくてよい」という意見もあります。

 このように、教育活動には慣例としてたくさんの無駄と思われるもの、不要なもので溢れかえっています。それを、今回のコロナ禍を機にどんどんそぎ落としていった学校もあれば、一旦はなくしたものの徐々に復活させていく学校もあるようです。どちらが正しいということはないと考えます。なぜなら、無駄の中にも価値はあります。かといって不要なもので溢れかえれば「目的」を見えにくくなることもあるからです。

必要と言われるものは何かのために必要なのであって、必要が言われる時には常に目的が想定されている。目的とは、それの「ために」と言い得る何かを指しています。必要であるものは何かのために必要であるのだから、その意味で、必要の概念は目的の概念と切り離せません。

國分功一郎『目的への抵抗』

 こう國分さんは指摘し、その上で目的や必要と相性が悪いのが「自由」であると言います。

2.目的からはみ出ること

 不要不急を避けるため、私たちは行政から様々な制限の自粛を要請されました。これに対し、國分氏はイタリアの哲学者アガンベンの主張を引きながら3つの論点を挙げています。それは①社会が生存だけに価値を置くようになったことへの批判②それを受けて死んでも葬儀すらできないとするような「死者の権利」の蹂躙に対する批判③移動の自由の制限に対する批判です。
 特に③の移動の自由に関しては、ベルリンの壁崩壊に見られるように支配から逃れるためにも、他の自由を保障する権利とは一線を画すものであるという指摘は非常に面白いと感じました。たしかに、思うように外出すらできない生活は相当に苦しかったのは私自身記憶しています。移動の自由とはかくも根源的なものであることがよく分かりました。その一方で定住革命という自ら移動を縛る選択をしたのも人類の歴史の中で見られるのですが、その考察はまた今度の機会にとっておこうと思います。

 さて、自由は目的や必要との相性が悪いことを前述しました。学校では自由度がかなり低いと言わざるを得ない環境です。目的達成のためにあらゆる目標が掲げられ、あれも必要これも必要という状態です。だからこそ子どもたちは休み時間の自由に安寧を求めるのでしょう。我々の休憩時間も同様です。

楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としているのです。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあると言うことができます。

國分功一郎『目的への抵抗』

 たしかにゲームしたり美味しい食事を食べたりというのは必要を超え出ています。食事は栄養摂取できればそれでよいというものではありません。だからこそ食文化というものが花開いています。目的に合った人間を育てることは商品を生産することと何ら変わりありません。目的からいかにはみ出るか、いかに楽しめるか、いかに余計なものを楽しいと思えるか、そんな着眼力を養う事、経験していくことが教育現場においても必要なことではないかと考えました。

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