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人はなぜ、自分から自由を投げ捨てるの?『第1-2章 要約 自由からの逃走 エーリッヒ・フロム著 』

●第一章 自由-心理学的問題か?

エーリッヒフロムがこの本を書いた背景、フロムの問題意識について考えていきます。

『自由』という言葉がキーワードです。

近代ヨーロッパや近代アメリカでは『自由』こそが最も重要な価値観の一つであり、その価値観のために人々が血みどろの戦いをしてきました。絶対王政支配からの解放、教会による価値観支配からの解放、アメリカ独立戦争による宗主国からの解放など、個人が自分で選択する自由を得るために市民は活動してきました。

しかし、この自由を求めていく流れに対して、第二次世界大戦中に不思議な動きが起こりました。特に枢軸国で見られることなのですが、人々がせっかく手にした自由を、自ら投げ捨て、自ら進んで国家に服従するという流れが起こってきました。これを全体主義と言います。

ドイツのヒトラーを党首とするナチス党、イタリアのムッソリーニを党首としたファシスト党、大日本帝国による軍部支配と国民による総力体制などです。

このように歴史を見ると、人々は特殊な環境において、人々は自由を投げ捨て、まさに自由から逃走することがあります。たいていの場合、自由から逃走すると、ひどいことが起こります。

本書の著者のエーリッヒフロムは社会学者であり、精神分析学者でもあります。そして、ドイツ生まれのユダヤ人でもあります。このため、ナチス党によるユダヤ人排斥を肌で感じていたので、一人の狂気の支配者に身をゆだね、社会全体が狂い、その暴力の被害者の一人として、人々が自由から逃走する様子を見てきました。

フロムの問題意識はここにあると思います。すなわち、国家などの社会集団が特殊な状況下に陥ると、集団で狂気に走ることがあるため、その現象について正しく理解して、二度とそのような状況下に社会が陥ることを避けていくということです。

こちらの問題意識については、何も第二次大戦中のドイツだけではなく、2022年の日本でも当てはまります。日本では、以前から同調圧力が強いほうですが、ここ最近は特に同調圧力が強まっています。同調圧力の強さが攻撃性に転嫁している感じもします。太平洋戦争かでは、ルールに従わない人を『非国民!』とののしり、攻撃をしていました。最近では、SNSで燃料を投下した芸能人、有名人を見つけては、徹底的に攻撃をしています。このため、現在の日本では、より全体主義的な雰囲気が醸成していると言ってもいいかもしれません。このような雰囲気は息苦しいですよね。もっと、ルール違反をしても、『まぁ、いいやん』と流してもらえるような雰囲気になればいいと思いますが、そのためには私たちが狂気に走っているということを自覚して、このまま進んでいくと、いずれ大変なことになることを自覚して、ブレーキを掛けることが必要だと思います。

このため、この本のフロムのメッセージが私達への処方箋になるかもしれません。


解析する際のアプローチの方法

人間が全体主義という狂気に陥る状況を解析するアプローチとして、フロムは社会学的な角度に加えて、心理学的な角度からも分析しています。これは、フロムがフロイトの弟子だったということもあります。ただ、フロムは『愛、憎しみ、性愛、孤独への恐れ、権力の欲望と服従』などのような人間臭い感情に着目しています。これらのような人間臭い感情が人間たちを動かし、そのような人間たちが社会の雰囲気を作っていった結果、集団で極端な方向に走ったことを示唆しています。

しかも、フロムのすごいところは、人間の感情が社会に影響を与えるのもありますが、同時に社会の出来事が人間の感情に影響を与えることも言っています。要は、社会の出来事と人間の感情の相互作用が働いているということです。

例えば、ドイツが全体主義に走る以前に、第一次世界大戦が1918年にあり、ドイツは敗戦国として多額の賠償金を課せられました。しかも、1929年に世界恐慌が起こり、国内に失業者があふれかえりました。このような時にドイツ国民は不況で職がなくて、半端なイライラ感が蔓延していたでしょう。そのようなイライラ感を回収するナチス党が現れ、ドイツ国民スゲー!、第一次世界大戦後に押し付けられた条約なんて守るな!という対外的に強い態度をとり、人気を博しました。このように、環境を激変する出来事が個人の正確に影響を与え、個人の性格が社会に影響を与え、その社会の雰囲気がさらに個人に影響を与え、、、、という自己強化的に働きました。あとの結果はご存じのとおりです。

これから、上記のサイクルについては本書で詳しく解説をしているので、読書会をやっていくうちに明らかになるでしょう。初めに最も重要な人間の感情について説明をしておくと『孤独』になります。『孤独』の感情を避けるために、人間は自由を投げ捨て、強い指導者の元に集まり、集団狂気に陥るといるということです。

その詳細については、後述の章でどんどん明らかになっていくでしょう。


●第二章 個人の解放と自由の多義性

・自由の定義について

個が確立している現代社会では『自由』が無条件に良いものという認識である。しかし、自由には良い面も悪い面もある。特に生物学的に言えば、『自由』とは良いものであるとは言えないかもしれない。

自由の定義とは他者の選択に従わずに、自分で選択をすることである。このため、人間が自由であるということは、常に孤独であり、自分のことについて自分で決定をしていかなければならないということである。

人間が自由になるということは個性化すると言えます。個性化とは大きな塊から切り離されて、より小さく、孤独な存在になるということです。人間の成長過程でも個性化が見られます。人が生まれて、幼児の時期までは、個性化していません。

というのも、胎児から幼児期までは、母親に生理的・精神的にすべてを与えてもらっているからです。幼児はどこに行くにも母親にだっこされています、食事も自分で調達できないので母親に食べさせてもらっています。その他、生命維持に関わる全ての事柄を母親に依存しています。

精神的にも同様、母親にすべてを依存しています。母親が笑えば、幼児は安心することができます。一方、母親の機嫌が悪ければ、幼児は不安になります。母親が起これば、幼児は恐怖を覚えます。このように、幼児は母親と同一であり、本質的に母親と分離していないと言えます。このように母親と幼児の本質的に分離していない状況でのつながりを『第一次的絆』と呼びます。

そして、幼児が成長をして、様々な学習をしていくと、母親との第一次的絆が次第に弱くなります。その過程で、子供は自由を欲して、独立を求める気持ちが生まれてきます。なぜなら、もともとは母親とは独立した存在なのですから。このように個性化が進んでいきます。

もちろん、個性化をすると選択の自由が生まれます。子供は他者に依存しなくても良くなります。しかし、個性化すると同時に孤独が増大していきます。母親という安定した塊から引き離され、小さく不安定なアトムになります。母親との一部であれば、個人として責任を取らなくても良いので不安を感じません。しかし、個性化すると何が起こるかわからない外界と直接対峙しなければいけません。

人間が孤独を回避する唯一の方法は他者と関係を築くことです。もし、他者との関係が非生産的であれば服従となり、生産的であれば愛、思いやりと呼ばれます。人間は孤独を感じることが、数ある恐れの中でも最も強いです。このため、孤独を回避するためであれば、より大きく、強い者に服従してしまうのです。

というのも、孤独はストレスだからです。孤独になると、常に自分で選択を強いられます。これが本当にしんどいです。自分の経験からも、何回も選択を多く迫られると、脳死状態で選びたくなります。これは人間の生物学的な特徴に起因します。

これは人間がアフリカのサバンナを歩き回っていたころの環境に由来します。人間は道具を作ることにより環境適応能力が高いですが、逆に言えば、道具がなければ環境適応能力が低いということです。人間単体では、生物学的に不完全な存在であると言えます。

このため、私たちのご先祖様は常に生命の危機にさらされてきました。そして、そのたびに選択を迫られてきたのです。石器時代に食べ物を取りに猟に出かけたとします。隠れ家の森を出て、開けたサバンナに出ました。そこで選択を迫られます。東に行くか、西に行くか。東に行けば、危険なライオンがいて、襲われるかもしれない。西に行けば、食べ物がないかもしれない。このように、考え始めたら不安は尽きません、でも選択をしなければいけません。なぜなら、住処に食べ物がないのですから。

石器時代の脳のまま進化をしてない私たちにとって、孤独は恐怖であり、選択はストレスです。絶えず、その両者に常にさらされている『自由』とは、生物学的に言えば『呪い』であると言えます。このため、孤独から逃れるためならば、他者へ喜んで服従していくというのもうなずけますね。

では、人々が孤独を感じる精神的な状況に陥る社会的な環境とはどのようなものでしょうか?これらについては明日以降に読んでいきますので、明日も参加をお願いします。


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