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【読書感想】デジタルネイチャー(落合陽一)

話題が多岐にわたるためあらすじを紹介するのはとても難しいが、全体を通してのこの本のテーマは「テクノロジーによる近代の超克」である。

 近代とは18世紀後期以降のヨーロッパで成立し、現代世界を特徴づける社会のあり方や人間観、国家観、自然観、自由観、労働観、家族観などの思想である。
 そして超克論、つまり近代をのりこえる論は最近出てきたトピックではなく日本では第二次世界大戦前にもっとも白熱した議論であり、世界中の思想家の主要トピックの一つでもある。近年の代表的な超克論はジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリなどに代表されるポストモダン思想である。

 というわけで世界中の思想家たちが今日にいたるまで様々な近代的な価値観や思想に対し果敢に攻撃をしかけていったが、(私が知る限り)本書が他と異なるところは理論だけではなくテクノロジーの発展をベースに語っていることである。現在のテクノロジー(ディープラーニングやヘッドマウントディスプレイのような3D技術など)の発展そのものが近代を超克する手がかりになり、同時に近代を破壊するドライバーになっていると筆者はいう。

 筆者にとって、近代的な思想を超越するための最大のターゲットは「言語」である。なぜなら近代的な価値観や思想はすべて「言語」という制約だらけの不自由なツールから生み落とされたものだからだ。
 ここでも筆者は言語を超克する可能性をテクノロジーに、具体的にはディープラーニングに見る。
 ディープラーニングとは人間の脳神経回路を模した機械学習手法で、最大のポイントは「言語的な意味」をあたえたり理解させずとも(たとえばネコ画像を大量に与えればネコの画像であると)認識や判断できるということだ。
言語を介さず画像から画像がアウトプットされる、筆者のことばでいえば「End to End」で思考しているということになる。
 この言語を介さないというポイントは『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』ではAIの限界とされているが、逆にディープラーニングを利用したシステムがあらゆる分野で発達し、人間が思考やコミュニケーションを肩代わりさせ、依存度が高まっていくほど「言語で考える」という従来の思考プロセスが非効率とみなされるようになるかもしれない。

 上記のように筆者は言語だけではなく近年のテクノロジーの発展が近代的な思想、たとえば自然観、人間観、労働観などの変更や再定義を促し、結果近代がゆっくりと超克されるイメージを語っていく。
 ただし、様々な疑問は残る。
 ディープラーニングで言語以外の思考の可能性の端緒が見えたのは確かだし、人間もディープラーニングのように言語を介さずにネコの画像をネコの画像と認識していると思われるが、同時にその画像を言語で意味づけし解釈してしまうのが良かれ悪しかれ人間であり、「言語」の超克はまだまだ先になると思われる。他の概念も同様だ。
 また、そもそも本書に「なぜ近代を超克しなければいけないか?」の説明がほとんど無いことも気にかかる。本書を読んでの率直な感想は、テクノロジーやテクノロジー企業の発達によって楽しいのは筆者のような一部の柔軟性に富んだエリートだけで、ほとんどの人にとってはこれまで以上に努力が求められるようなすさまじい格差社会が待っているイメージだ。
 近代を超克することは本当に人々に幸せをもたらすのか、それとも必要悪として受け入れるしかないのか、本書でそれを求めるのは求めすぎかもしれないが、もうすこし慎重に議論されても良いと感じた。

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