見出し画像

わたしの有頂天家族

だいたい10年前のある夜、消し忘れたテレビから聞こえた言葉に涙した。翌日、久しぶりに文庫本を購入する。作者も作品も知らず、アニメを観る習慣もなく、思ってみれば長いことまともに本を読んでいなかった。

『有頂天家族』との出会いである。

とりあえず最終章を少しだけ確認した後に最初から読みはじめた。

本とはこんなに楽しいのか。 

 森見登美彦との出会いである。

そんなわけで森見作品の中でも私にとって『有頂天家族』は別格であり、どうにも文章が纏まらない。諦めます。書けるように書けるだけ書きます。萌語りです。



⚠️ネタバレあり
⚠️Twitter(X)にて開催された偽読書会を経ての個人の感想と妄想です






トリックスター  矢三郎


イタズラ好きのトリックスター。矢三郎はいつでも自分を見失わない。きっとコンビニエンスストアで何を買ったらよいかわからず途方に暮れたことなんてない。

狸らしく楽しく面白く愉快に、物語の中で彼は父の死とゆっくりと向き合う。それが取り返しのつかないことと思ったのは物語の終盤。急なことだった。チチオヤゴロシはこどもの自我を確立させて自分を定位させるらしいが、偉大な父が偉大なまま死んだのだ。どうしろと言うんだ。

突然だが森見作品のキーワードのひとつ《サヨナラ》がとても好きだ。もしも二度と会えないとしても縁があった事実は変わらないとすると、この言葉には《喪失》だけではなくて《再構築》も含まれているのではないか。森見的に言えば再会と言い換えられるかもしれない。

生者はうつろいやすく、死者は変わらない。そのため前者との関係性の再構築のほうが困難だと思われる。矢三郎は生きて老いていく赤玉先生との自主破門をとき、新しい関係性を築いた。だからこそ父親の死と向き合うことができたのではないか。父は偉大だ、師も偉大だ。母は生者でありながら変わらず子どもたちを海よりも深く愛して信じているので本当に偉大だ。

自分の内面、衝動に素直に向き合いつつ成熟していく。その姿は神話の英雄たちのよう。だからこそこの物語の主人公は矢三郎だ。余談ですが、トリックスターはよく女装します。


barノスタルジア



オフィーリア  矢二郎


全ては矢二郎からであった。冒頭のテレビアニメからぽつりと聞こえてきたのが彼の言葉だった。どのシーンかというとオフィーリアのところである。アニメ有頂天観た人はみんなわかる。その美しさたるや。私の最推しは矢二郎である。かわいそうなおとこはかわいい。

彼は長い時間を悔恨の念で引きこもっていた。あの世という異界へ通じる《冥途送りの井戸》に己の狸性を封じたことは自罰だ。井戸に身を投じる瞬間を想像してみてほしい。私の心の中のやわらかい場所がしめつけられる。矢二郎が父を殺したわけではない。しかし「父親を死なせてしまった」という物語の中でしか生きていられなかったのだろう。家族にも語ることのできない苦しみを抱えていた。慰めや許しでは救われなかった。父親の喪失に対して己を責める時間が必要だったのだ。なんと切ない生き方だろうか。

森見作品の中でもとびきり好きな描写が「あれをやれ」のところなんですけれども、電飾を反射してきらめいている火照ったからだで冷えた街の空気を突っ切って、自分の中で尊敬する父がお気に入りの遊びに心底楽しそうに笑っている。この森見的偽京都ファンタジーでしか成立しない美しくこころよい場面。彼はこの全てを失った。そんなん……そりゃ…そうだろうよ。俗世に帰ってくる時に化けたのは得意の偽叡山電車であった。その姿で師走の街を疾走する間に彼の中で父が再構築されたのだ。

「地には母なるものの象徴もあるので、離れていても矢二郎は母に守られながら安心して無意識近づけたと思うと素敵」という見識をいただいた。意識の狭間を彷徨う姿がかの名画を連想させていたのか……じょうちょ。


鞍馬駅 デル21系



ニューカマー  矢一郎


偽読書会にて語るうちに気づいたのだが矢一郎、かわいいな。新たな推し、ニューカマーだ。

偽右衛門を目指す彼が本当に目指したのは狸の頭領の地位ではなく父・総一郎だと思う。似て非なる自分が具体的に目標とできるところが偽右衛門であっただけではないか。かわいそう。

矢三郎が言葉につまったところで井戸の中の弟に本題を切り出したのは矢一郎だ。父亡き後はいつもそうやって家族の最前線に居たのだろう。弟たちを守りながら、父の喪失に対して現実の些末な事とともに常に向き合ってきたのが矢一郎だと思う。

運命という巨大なものに対して、悟ったり乗り越えたり切り開いたりすることは立派だ。あっぱれだ。そして運命を受け入れるということも命懸けだ。コンプレックスは悪ではない。到達しえないとしても理想とする姿を真似ることによって近づくことはできる。目指すところへ近づくことはできると信じる。矢一郎の生き方はそういったものだ。

いきなり一族の頭領となったのは本意ではなかったろうが、彼は不格好に懸命に父を真似ながら日々のやっかいごとの中で覚悟を決めた。偽右衛門を目指すという物語を選んだ。君こそ狸界の大型新人だ。


下鴨神社



ダークホース  矢四郎


大切なひとの突然の死。この悲劇を受け入れるには時間が過ぎるのを耐えるしかない。『有頂天家族』は父の死から時間を経たところから物語がはじまる。大いなる余白、行間がここにある。この時間を彼らは家族で過ごした。そのことを証明するのが下鴨家のダークホースである矢四郎である。

この余白で矢一郎は覚悟を決めた、矢二郎は禊ぎを行い、矢三郎は再構築の修業をしていたことになるのだろう。そして矢四郎は何をしていたか。育った。家族を救うほど育ったのだ。

偽読書会で初めて気づいたことだが、父が冥途に旅立ったのは矢四郎がまだ毛玉のころであり、間もなく次兄が井戸に篭ったとすると、この末弟にはともに暮らした記憶がほとんど無いのではないか。しかし矢四郎にとって、父も次兄も家族である。それは、天狗も含めてみんなが家族として語って聞かせていたからこそだ。矢四郎は家族の物語で育った子だ。でなければ、井戸の中の蛙に酒精を注ぐなんて奇策を思いつくはずがない。

偉大な父の喪失に苦しむ兄たち。しかし末弟にはそもそも喪失する父親像がない。その為、父の死に対して彼には兄たちにはない困難が待っているかもしれない。

家族で過ごした余白の時間は愛だ。矢四郎は家族の愛の証明だ。この下鴨家の伏兵が第三部でどう苦悩するのか、いかに活躍するのかを早く知りたい。愛され末っ子としてずっとぽわぽわしていてもそれはそれでいい。


六道珍皇寺




余談 早雲と総一郎


昨年末に開催された大忘年会にて「なぜ早雲はあそこまで兄を憎んだのか」と問われた。人類初のコロシはカインとアベルという兄弟間で生じたように、身近な存在にこそ妬みはいだきやすいと何の疑問に思っていなかったので考えたことがなかった。

その場では「徳も悪徳も行為のことだと聞いた。それぞれの行いからみて徳のかたまりみたいな総一郎と対峙させるため悪事ばかりはたらく悪徳の煮こごりのキャラクターが設計されたのではないか」と言ったが、それだけではない気がした。ところで話は変わらないが、《不正のトライアングル理論》というものを教えてもらった。

何かしらの不正が発生するのは三つの要素が揃うからだという。①不正を行う動機、②不正を行う機会、③不正の正当化、①と③は個人の内面で起こることなのでどうしようもない、他者が関与できるのは②の機会だけなので不正を防止するためには、悪事ができないように環境やシステムを整えるのだと。これはあらゆることに当て嵌まる。

憎しみの理屈はやはりわからないので今現在も考え続けている。ところで愛はどこからきたのか。下鴨家がともに過ごした時間は愛だ。愛も憎しみも妬みも、ともに過ごした時間で培われる。

《愛》も《憎》も変わらない。どちらも理不尽にやってきて、理屈など通用しない。平和に生きるには気に食わない相手ともさらに時間を積み重ね続けるしかない。

早雲も金曜倶楽部という機会がなければ違ったのではないか。兄弟のあいだで続く時間があったのかもしれない。


旧家邊徳時計店


ファム・ファタール  弁天


オトコたちを虜にする運命の女性、弁天はファム・ファタールの例として国語辞典に挙げられていてもおかしくない。

矢三郎は赤玉先生との関係性を再構築したが、弁天は師を捨て去った。不要になったから捨てたことは、ある理屈では正しい。要らないものを抱えたままでは高く跳躍できないだろう。しかし、そうするとひとりになってしまう。

意味もなく目的もなくぽてぽて歩いていたところから天狗という能力と役割を与えられた。さらには金曜倶楽部に迎えられ無敵の弁天として京都の街に君臨する。華々しい転身である。ではなぜ泣くのか。さびしいのだ。喪失したものとの再構築を成せないからさびしいのではないか。アリストレスは「一人で生きるのは野獣か神である」と言った。彼女は半天狗の弁天である前に人間の鈴木聡美だ。狸と同じように人はひとりぼっちでは生きられない。

矢三郎と弁天の関係性は平行線だ。この粋な間柄は交わらないが故に喪失することがない、変化しない。この心地よさを手放したくないのだろう。

妖艶な魔性の女性に不思議と幼子の気配を感じる。何かを求めてばかりの彼女が、誰かと上手にサヨナラできる日は来るのだろうか。初読の際、矢三郎が鍋になるルートを警戒してまず結末を確認するという邪道な読み方をしてしまったが、しょーがなかったと思っている。



金曜倶楽部ごっこ倶楽部、三嶋亭にて




おわりに


文明の世を生きるにあたって、近代科学の恩恵を大いに受けて暮らしている。しかし効率や利便性を重視する生き方は何かしらを見失うことがあり、そのひとつが《物語》ではないかと思う。

ある日、森見登美彦の物語が今まで見ないようにしていた私の内側に入り込んだ。10年ぶりの読書から1年間は森見作品ばかり読んでいて、読みきったところで聖地巡礼という文化を知り、旅というものをしてみようとおっかなびっくり京都を訪ねた。いろいろあって現在に至る。

物語がひとを生かすこともある。


がんばって登った大文字山







感謝の気もちが大きくておもすぎて、そんなこんなあんなを詰め込んだお祝いに相応しい言葉はどうやっても捻出できそうにない。


推しの概念に有頂天グッズの尻尾をつけて遊んでいるところを駅員さんに見られて一緒にお撮りしましょうかと提案されてしゃいな私は小さな声で断ることしかできませんでしたが、あの時の叡電職員さんありがとうございました。すごくあたたかい眼差しだった。
推しの概念に有頂天グッズの尻尾をつけて
遊んでいるところ

アニメ『有頂天家族』10周年おめでとうございます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?