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なでと君むなしき空に消えにけん 3-1 美夜子

3

人生は突然、何の前触れもなく、簡単に壊れてしまう。
お母さんも、お父さんの笑顔も、あの日、私の前から一瞬にして消えてしまった。まるでジェンガみたいに、簡単に崩れてしまった。
あの時の私は、お母さんにもう二度と会うことはできないのだという事実を、ちゃんと理解できていなかったように思う。
それよりも、打ちひしがれた表情でひたすらお母さんの写真を見つめ続けていたお父さんが、もう一生こんな顔のままなのだろうかと、ひどく不安で、怖かった。


すっかり暗くなってしまったあぜ道を、おんぼろのインテグラが跳ねるように進んでいく。ただでさえサスペンションにがたがきているというのに、でかいホイールに薄いタイヤのせいで、道の亀裂やふくらみを踏むたびにお尻が跳ね上がった。おまけにしゃこたんをさげエアロまで取り付けているせいで、定期的に車体のどこかがこすれる嫌な音が鳴り響く。
けれど颯(はやて)はスピードを下げる様子はなかった。
一体いつ舗装したものなのか、でこぼこのコンクリの上をインテグラが跳ねるたびに、トランクがぽんとあいて中のものが飛び出てしまうのではないかと、気が気ではなかった。
古いとはいえ、トランクがそこまで頼りないわけじゃないことはわかっていても、後ろに積んでいるものが何なのか本当に理解できているのか怪しいこの子の運転に、怒りをこらえるのも限界が来ていた。
「颯、飛ばしすぎ」
「仕方ないだろ。朝には県外にでてねえと」
「ここでお巡りさんにあったらどうすんのよ」
「お巡りって、本橋じゃねえか。今頃さぼってんだろ」
「だいたい、もっとましな車なかったの?」
面倒くさそうに答える颯にも、お尻を気遣うってことを全く知らないレーシングタイプのシートにも腹が立って、思わず自分の失敗を棚に上げてしまった。
「はあ?これ持ってきたの美夜姉だろ?」
案の定、颯の声にいらだちがにじむ。
やってしまったと思ったけれど、私もなぜか、腹の底から湧き上がる激情を抑えることができなかった。
「あんたがスピード出るやつ持って来いっていうから」
「こんなんのトランクに三人も入るかよ!」
「怒鳴らないでよ!!」
「ああ!?大体リミッターかかってんだからスピードなんて一緒だろうが!馬力あるやつもってこいって意味だったんだよ!ランクルあったろうが!」
「だったら最初からそう言えばいいでしょ!?」
「大体わかんだろ!」
「焦ってたのよ!あんたこそビビッて震えてただけじゃない!」
「うるせえな!!!」
「うるせえな?はあ?私に全部やらせといてうるせえな?」
「ああうるせえんだよ!車屋の娘なんだからわかんだろ!」
そう言った途端、颯はしまったというような顔をした。
そうしてしばらく口をもごもごさせて何か言おうか悩んで、結局、ごめん、とだけ言って黙ってしまった。
この子はやっぱり、勘違いをしている。
でも、それでいい。
「別に、お父さんの娘である事実はかわらないから」
私が言うと、颯はもう一度、ごめんとだけ呟いた。
しばらく車内は沈黙に包まれた。
お互いの荒い息と激し鼓動が聞こえてきそうなほどの沈黙の中、エンジンの甲高い音が、いやに心地よかった。
突然、車のスピードが落ち始めた。ギアが下がるたび、野太い音がマフラーから吐き出される。エンジンの音がどんどんと低く、重みのある音に変わっていく。
「颯?」
車が完全に停止しきったところで、私は颯を見た。
颯は、震えていた。ほの暗い車内でもわかるくらい目に涙をにじませ、食い込ませるように強く握りしめた両手はハンドルから離せなくなってしまったのか、宙に浮く腕がバランスを失った綱渡りのロープのように、左右に激しく揺れていた。
「颯、ごめんね」
努めて優しく、私は言った。
「俺こそ…」
「みやねえ、焦ってたから」
この子がうんと小さかったころのように、私は語りかけた。
焦っていた私が、咄嗟の判断でお父さんのお気に入りだったインテグラを持ってきてしまったことを、この子は深読みしているのだろう。
颯のたくましい前腕が、あまりに弱々しく震えていたせいで、私はすこし、罪悪感を覚えた。
この子はまだ、17歳なのだ。根気もないし、やる気もないけれど、それでもつらい家庭環境に耐え、必死に生きようとしていた、17歳の普通の男の子だったのだ。どれだけ自分がつらくても、私の事だけは、いつだって気にかけてくれた、優しい優しい男の子。
「ごめんね」
呟き、颯を抱き寄せる。彼の髪に顔を寄せると、女の子みたいなにおいがした。颯がとても気に入っているシャンプーの匂いだった。私は、あまり好きではなかったけれど。
颯の髪をゆっくりなでる。何度も何度も撫でていると、私の腕の中で、颯が静かに泣き始めた。
「ごめんね」
もう一度呟き、心中で自分自身を罵った。
颯の気持ちに、私は気づいている。
この子にとって私は、単なる幼馴染のお姉さんなんかじゃなかった。
十一歳も年の離れた男の子に好意を寄せられるのは素直に嬉しかったが、だからといって私は、颯をそういう目で見ることはできなかった。
それなのに…。
「ねえ覚えてる?お社に初めて颯を連れてった時のこと」
「うん…」
颯を抱き寄せた胸の中に、じんわりと暖かい吐息が広がった。
「あんた、ササメサマにソソカノサレルってちびりそうになってたよね」
懐かしい言い間違いに照れているのか、胸の中の颯が少し笑ったようだった。
「ただの昔話だって教えてあげたのに、耳にトザシブンシンまで書いてきちゃって」
「だってあん時はさ…」
照れたように口ごもる颯を抱きしめる力に、ぐっと力を入れる。
「あの頃のあんたほんと可愛かったよね。しょっちゅう杏子ちゃんに泣かされて帰ってきてたじゃない」
「あれはあいつが…。てか杏子に泣かされてたのは俺だけじゃねえし」
「はいはい。でも、たくましくなったね」
颯の頭に顔をくっつけて私が言うと、颯の身体がこわばった。胸越しに、緊張しているのが伝わってくる。
「ねえ颯、やめるなら今だよ。あなた立派な男の子になったんだから、私なんかのために人生棒にふることないの。みやねえは大丈夫だから。ね?」
私がそういうと、颯は胸の中でぶんぶんと首を振った。
「大丈夫だから」
私があやすようにもう一度呟き、さらにぎゅっと抱きしめると、颯は案の定、私からそっと体を離した。そうして私の両肩をそっとつかむと、じっと私を見つめた。
「いや、大丈夫」
決意したようにそう呟き、続ける。
「罪は半分こにしたほうが楽だろ?」
そういって、にっと笑ってみせた。
私は微笑み返し、もう一度颯にハグすると、おでこにキスした。
「運転、変わろうか?」
「いや、いい。ちゃちゃっと行こうぜ」
もう一度にっと笑った颯は、クラッチをふみ、力強くギアを入れた。
再び車が動き出す。ギアが上がるたび、マフラーから野太い音が響き渡る。
私の弱音を、颯が放っておくはずがなかった。私に対する好意につけこんで、私は彼を利用している。見返りを渡す気なんて、さらさらないのに。
だけど一人でやり遂げられる自信なんてない。ここで颯に投げ出されてしまっては、全てが水の泡になってしまう。
一抹の罪悪感を感じながらも、私は颯が再び車を走らせてくれたことにほっとしていた。

人生は突然、何の前触れもなく、簡単に壊れてしまう。
お母さんがいなくなったあの日、私はそれを痛感した。
あの日から、一歩歩くごとに恐ろしいほどの『変化』が私を襲った。
もう二度と、あんな怖い思いはしたくない。
だから私は、やり遂げなければいけない。これが私の、最後の大舞台。
私の人生に、今後一切の『変化』が現れることがないように、私は、演じ切らなければいけない。


続くよー

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