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保育園をつくった理由

2018年に19名の園児の小さな保育園が生まれ、2021年に30名の園児が通う保育園が生まれた。園を作った理由をしばしば聞かれることがある。いろんな動機が重なったこともあるけど、今思いつく理由を書いておこうと思った。

時系列で振り返ってみると、2009年に法人を立ち上げ、写真屋(DPE)を始めた頃は、撮影ができる写真館ではなく(今は商売の主となっている)、表現やコミュニティーをメインとしたギャラリースペースとして成り立たせようという気持ちが大きかった。まちの公民館のような役割を担いたかったから。その時から誰かの居場所を作ることを意識していて、場を活かすイベントなどを開催しながら感覚的なものを運営し続けてきたけど、20代から30代になり、そろそろ自分やスタッフが体力的にがんばって維持することも限界が生じてきて、もっと丁寧にお金を生み出す仕組みを考えないとそもそも会社を維持することも不可能だなとようやくわかり初めて。。。むしろ公民館のように運営するなら、本当に行政から運営費をもらってやれた方が間口も広がるだろうし、何がやりたいのか整理していかないと、と思い始めていた。

そんな中、妊娠、結婚、出産を得て、社会に対する矛盾や違和感もより一層感じるようになり、また夫がドイツ人だったということもあり、多様性を受け入れることで生じる具体的な課題みたいなものも見え始め、等身大で自分ごとから少しずつ場(居場所や社会)を開拓する方法を身につけてきた気がする。

例えば、こんな経験がある。
結婚の際に、ドイツでは、夫婦別姓を認められた。それどころか役所では「あなたの名前(漢字も)はすばらしい。サインは漢字でいつも通り書いてください」と漢字にお褒めの言葉をもらい(自分のアイデンティティーを尊重され)、婚姻届へのサインは、女性からと促され(社会的に弱い立場を意識しつつ、そうならないように大事にされている感じがした)、「結婚の証明のキスはドイツ人はほぼみんなするけど、日本人は人前ではしないと聞いているので、したくなかったらいいよ」と選択肢を与えてもらえた。そんな経験を踏んで戻ってきた日本では、婚姻届を出すときは夫婦別姓などもちろん認められてはいない。
でも法務局で、代表者として名前を変えたくないと伝えたら、併記できると言われ喜んで、言われた通り「ボーデ咲帆(酒井咲帆)」と登記したら、まんまと騙された。自分の名前が3つになってしまったのだ。つまり、酒井咲帆、ボーデ咲帆、ボーデ咲帆(酒井咲帆)というやっかいな名前たち。今では3つのゴム印を使い分け、〇〇銀行では、括弧が使えないから「酒井咲帆」のみ、個人名はボーデ咲帆、他は登記と同じように「ボーデ咲帆(酒井咲帆)」という長い名前を常に書かされる、などなど、どこでどの名前を使って申請しているのか、私自身も管理できていない。銀行員も担当者が変わるたびにしょっちゅう間違えて、書き換えを依頼し来る始末。これリアルネタだよ。

子ができて妊娠を確かめに行った産婦人科では「今すぐに予約しないと産めなくなるよ」と圧をかけられ、???だった。「いつ産まれるかわからないのに予約って何やねん。」「どこで産むか、どうやって産むかは選べないのか?」「出産は何が大事なのか」「産む方法ってそもそもどんな方法?」といろんな疑問が浮かんだ。もちろんそんな疑問を抱えたまま何もわからずに出産することはできない。満足するお産がしたい。満足するお産って一体なんなんだろうか。何度も開いた学び合いで知ったのは、満足するお産を体験した人や、そもそもそんなものがあることすら知らない人がほとんどだったこと。皆口々に、「もう二度とあんなお産をしたくない」と涙ながらに語ったり、これまでお産を言葉にしたことがないけど苦しかったという経験談を語ってくださった。こんなことがあっていいのだろうか。これは大きな社会問題だと断言したくなる。

そして、さらに、産まれた子どもを普通に育てたいと思っても、女性で会社の代表者を担ってる場合は守られた形で育児休暇が取れないとわかった。小規模事業者の代表取締役(プレイヤー)となっている自分が休暇するなると、収入も減る。どうしたらいいのかと相談したら、夫に代表を譲れば何となかなると法務局で言われ、「は?」となる。10年近く自分が1から立ち上げた会社を、ついこないだ結婚して、会社のことなど何も知らない人に譲れるわけがないよ、と憤って出産8日目から出勤。会社を守るにはそれしか方法がなかった。女性の起業を応援してる風潮もあるけど、その後に起きる女性の立場を男性はわかっているのだろうか、と言いたい。これも社会問題だと思う。

育児休暇が取れないとなると、小さな子どもを保育園に入れなくてはならない。私に起きた諸々のことを役所で熱弁して、理由書のようなものを書いても、誰も支えにはなってくれない。保育園は3回落ちて、ようやく通ったところは、家から自転車で30分のところ。まぁまぁ遠いよ。預かってもらってるだけで満足、ということなどもちろんなく、一緒に子育てしてもらってるという体験が欲しかったけど、我が子の個人記録などは一切見せてもらえず、私にとってはその時期の我が子の子育て(思い出)が抜け落ちている気がして辛かったし寂しかった。1年間通わせながら、この子と一緒に育つには、保育園を作るしかない!と思い始め、そこからは神頼み人頼み、記憶がないくらいまっしぐらに今までやってきた気がする。

とにかく、今も身の回りの社会を開拓している過程で、矛盾を紐解きながら、納得できないことは納得できるまで、もしくは諦めるしかないところまで探り、そこから得たたくさんの課題をまた紐解き、乗り越え、ということをずっとずっと続けているような現状、である。

だから、保育園が生まれたのは必然で、作ろうと思ってつくったのではなくて、そうしなくちゃいけなかったからなのかもしれない。きっと私の親育ち子育ちの過程に必要不可欠で、きっと他の誰かにも必要なんじゃないか、と思えたから生まれてきたんだろうと思う。

園ができたら、集まってくる人たちそれぞれにたくさんのご苦労があり、それを一緒に乗り越えるためにまた奮闘したくなる。保育園ってそういう役割でもあり、とても重要なコミュニティーだと感じている

園を作った理由は他にもあるけど、子どもたちには、大人たちからのギフトとして受け取ってもらえたらいいな。喜んでもらえるようなギフトになるように、これからもたくさんの人と一緒にその過程を楽しみながら作っていきたいと思う。


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