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映画『怪物』鑑賞後のもやもやを明らかにする

鑑賞後ずっともやもやが晴れないでいる。
文章をうまく構成できないと思うが、ひとまず書きなぐることで少しでももやもやが晴れれば良いという願いを込めて書き始めたい。
僕と同じくもやもやしている方々に出会い意見交換できればという期待も込めて。

以下の文章は映画『怪物』(監督是枝裕和、脚本坂元裕二)のネタバレを含む。
映画ノベライズ版は未読。解釈違いや記憶違いなど間違いに感じられる部分があればご指摘いただけると大変ありがたいです。



是枝監督作品は『万引き家族』や『海街diary』、『そして父になる』、『空気人形』、『ワンダフルライフ』と何作か拝見していて、「この監督の作品は僕の感覚と合わないな」と以前から思っていた。
『怪物』は大好きな坂元裕二先生脚本ということなので自然に期待値が上がってしまったのだけど、それが良くなかったのかも知れない。

『怪物』は3部構成となっている。
(1)  麦野早織(安藤サクラ)が息子の違和感から学校に抗議する。
(2)  保利道敏(永山瑛太)が学校の体制により追い詰められていく。
(3)  麦野湊(黒川想矢)と星川依里(柊木陽太)が友情を超えて共に時間を過ごす。

本作は視点が変わることで物事の意味合いが正反対になるダイナミズムが楽しみ方のひとつだろう。
湊のいじめを思わせる異常行動のひとつひとつが解きほぐされていく快感がある一方で、彼がどうしても隠さなければならないと思っている同性愛的な想いを知り切なく悲しいと感じる。
(1)  では保利先生が、(2)では星川くんが「怪物」に映り、(3)ですべてが明かされることで「怪物探しをしている我々の中に怪物がいたのだ」「この社会が断片情報のみで誰かを怪物に仕立て上げているのだ」ということに気付かされてしまう構成だ。

3部構成の内「(1)安藤サクラメイン」と「(2)永山瑛太メイン」についてはとてもおもしろく鑑賞できた。
「あんな良い先生が親の前で飴舐めるわけないでしょ」という違和感があり作品への没入が妨げられたりしたが、(1)と(2)は(3)へ展開される前準備としてもとても惹きつけられた。
東京03のファンなので角田晃広の演技には作中以外の面白味も感じ取ってしまい余計に楽しめた。
(きっとこの学校にはジャージ姿の豊本先生や生徒に好かれる調子の良い飯塚先生もいるはずだ。閑話休題)

だがその期待値の高まりが(3)のもやもや感を強めてしまったのかも知れない。
湊が母親に隠し事をして心配させたり、保利先生を学校から排除するような振る舞いをしてしまったのは、依里との関係がばれたくないからだった。
少年期の同性への憧れ。
依里の父(中村獅童)が同性愛や性同一性障害について全く理解がなく「豚の脳と入れ替わっているから矯正が必要」という偏った考えを持っており、それが湊や依里へ大きな影響を与えてしまう。

誤植を見つけるのが趣味な保利先生は依里の作文からメッセージを読み取り、また湊への家父長的な押し付けをしていたことも恥じたのか、嵐の中謝罪へと駆け付ける。

湊と依里は嵐の中廃線の先にある錆びれた車両の中で友情とも愛情とも言えるような時を過ごす。

そして物語のラスト。
二人は晴れ渡り草木が輝く世界に飛び出て楽しそうに駆け巡る。

これは鑑賞者によってハッピーエンドかバッドエンドかに分かれているようで、僕には完全なるバッドエンドにしか見えず、それゆえにもやもやが晴れないのだった。

早織と保利先生が駆け付けた車両は土砂崩れに遭い湊も依里も返事をしない。
そして嵐が去り快晴になった時には早織も保利先生もいない。
これはつまり湊と依里が死んでおり、その後天国のような場所でようやく二人はこの社会の息苦しさから解放され笑い合えたのだ、と受け取った。
裏を返せば、同性愛的な少年たちの想いはこのクズ社会では決して果たされることはなく、死ぬしかない、という歪んだメッセージに感じた。

そもそもこのご時世で映画の核心が少年同士の恋慕?
別に少年が少年を好きでも、男に生まれたけど内面が女でも別にどうってことないだろ。
過剰に異端として扱う必要は無いし、あるがままとしてどこにでも居るように描くことこそが救いになるのでは、と考えている僕にとって、「死による救済」はあまりに前時代的に感じた。

では生きてればいいか、と言われるとそちらも救いはない。
二人の少年はあの映像の通りに快晴の中車両から脱出して笑顔で駆け巡る。
その後は?
依里は我が子を豚の脳と罵る父親の元へ帰るだろうし、湊はトランスジェンダータレントをあざ笑う母親の元へ帰るだろう。
そこに何の救いが?

生きてようが死んでようがどちらにせよこの社会はクズでしかなく、しかも容易に改善されることがない。
そう。この社会は怪物だらけだからだ。
正直この映画が大絶賛されているのが理解できない。
なぜ好きな人がいるという当たり前なことが生きづらさへとつながっているのか。
この映画を観てもこのクズ社会に違和感を抱かないほど怪物化してしまい、ハッピーエンドにしか感じられないのだとしたら、この映画は痛烈な皮肉になっていると共に永遠にその皮肉は伝わらないという絶望を帯びるだろう。

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