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寺子屋をやりたいわたし。

今日は、ちょっと私自身のやりたいことについて書き記してみようと思います。

「寺子屋をやりたいな〜!」

そんな風に思ったのが、約5年ほど前。

京都のとある沖縄料理屋さんで出会った方が、
子どもたちに茶道やら武道やらを教えてらして
「寺子屋」みたいなことをやっていると聞いて

寺子屋のワードに「びびっ!」と来たのでした。


もっと自分らしく、自由に生きていきたい。

そう思った社会人1年目。

就活時代は、あんなに「なにがやりたいのか?」を問われ考え、未来を描いた。自由な人生を生きていきたいと思って、価値観が合うと感じた場所を選んだ。

会社選びについては、悔いはないし、「概ね」素に近い自分でいられることができた。

だけど、どこか窮屈で。それは今思えば、自分で規定していた、自分が自分にかけていた縛りでもあった。

自分は正解を求めがちなことにも気づいた。
判断軸を他人に置いていることに気づいた。

未知の課題に取り組む力がとても弱いこと、
そして対人能力が低いことに気づいた。

大学まで、勉強をコツコツとやってきて
長い義務教育、学生時代に特段苦労したことの
なかった私はとてもショックだった。

社会で生きていく力が弱いわたし

社会で生き抜く力と、
学校で求められる能力は違う。

そんな当たり前のことに気づいた私。

気づいたけれど、どうしたらよいか分からないもどかしさと共に

まずは社会人としての基礎力をつけるべく苦しみもがく日々を送る。

そしてそんな課題感を感じた私はいつしか、

「もっと子どもの頃から、生きる力を培えるような、そんな場があったらよいな。というか将来私が作りたい」

と思うようになる。

経済学部を出たのに就活時には教育に興味があると気づき、

そしてそれは恐らく父が自営で塾を経営してきたこと、

知らず知らずのうちに何かしら教育の恩恵、大切さを感じ自分自身の価値観を形成しているかもと気づく。

そんな色々な点と点がつながって(本当はもっと他にもあるけれど)、

たどりついたのが「寺子屋」というワードだった。

寺子屋って、何をする場なのか?

この問いは私にとって難しい。

なぜなら、社会で生きるために必要な力って
色々あるし、「これをやれば身につきます!」
というほどシンプルで分かりやすいものではないから。

大切にしたい本質価値観は、キーワードとしてはいくつかあるけれど

それをどう具現化していくかは模索中。

目的は概ね定まっているけれど、
手段は無数にある。 

そう考えたとき、
手段ありき、コンテンツありき、
そこに自分を規定してしまう怖さがある。

だけど具体化しないと、自分が描いてきたものは実現していかない。

そんなジレンマの中、
色々な事例収集を進めたり
抽象、抽象、具体、の間を行き来している。

初心を忘れたくない。

これから具体を描いていき、
行動していく過程のなかで

目の前のことでいっぱいいっぱいになる日が
絶対に出てくると思う。

今日の記事は、きっと未来の自分にとっての
原点というか立ち戻るべきものを
言葉にしておきたかったから

だからふと書こうと思い立ったのかもしれない。

大切なものは、大切であると当たり前に思い過ぎて、意外に意識においては置いてきぼりにして突き進んでしまうことがある。

そして大切だからこそ、言葉にすることが怖いときがある。大切なものを、守りたいし、誰かによって傷つけられたくないから。

だけどあえてそこを言葉に、しかも公のものにしてみよう。

そう思えたのは、ちょっとずつ私の覚悟が形になってきたあかしなのかもしれない。



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