後白河法皇①

「仏は常に在(い)ませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢にみえ給ふ」

と、雅仁親王は歌う。

世に今様という。

今様の「今」は現代という意味で、現代風という意味である。

7、5、7、5、7、5、7、5 でひとつのコーラスとなるのが特徴である。

他にも「春の弥生の曙に 四方の山辺を見渡せば 花盛りかも白雲の かからぬ峰ぞなかりけれ」という歌もある。越天楽という、今に残る雅楽で最も有名な曲につけて歌う。

これを越天楽今様といい、この越天楽今様の旋律を変化させたのが『黒田節』である。

さらに今様の歌詞の形式はよほど日本の歌謡に合うようで、明治以後も『我は海の子』『荒城の月』『蛍の光』などでも今様の形式で歌詞が作られている。

「いたくさただしく御遊びなどあり」と、当時の五摂家九条家出身の僧慈円の史書『愚管抄』に記したほどだが、この表現もまだ甘い、常軌を逸しているかもしれない。

後に親王は『梁塵秘抄』という今様の歌謡集を編纂したが、その中の『梁塵秘抄口伝集」に、

「10歳の頃から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは3回あり、そのうち2回は喉が腫れて湯や水を通すのも辛いほどだった」と自ら記すほどであったというから、異常な打ち込みようと言って良い。

もっとも、『梁塵秘抄』は親王として編纂したのではない。

上皇、法皇として編纂した。つまり元天皇だったのだが、今の我々には「後白河法皇」という名称が一番馴染み深い。


雅仁親王には兄も弟もいる。

兄は崇徳上皇で、弟が近衛天皇である。

また当然、父も母もいる。父は鳥羽法皇、母は中宮藤原璋子で、待賢門院という。

なお、『梁塵秘抄口伝集』に続く。

「待賢門院が崩御されて50日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられて、あまりに近くなので(今様を)遠慮すべきだったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎日歌っていた。鳥羽殿(鳥羽法皇の離宮)にいた頃は50日ほど歌い明かし、東三条殿(摂関家の邸宅。近衛天皇の里内裏でもった)では舟に乗って40日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」

という入れ込みようで、上皇や法皇が近くにいようがお構いなしである。

親王のあまりの没頭ぶりに、「即位の器量ではない」と、父の鳥羽法皇から言われていた。

(主上も何をおっしゃるのか)

雅仁親王は思った。(我らが王家の天下など、そう遠くない未来になくなってしまうのではないか。帝の位などまろの方から御免被るでおじゃる)

親王は冷めた目を持っていた。

(今の朝廷は、あまりにも武力を持たなすぎる)

平安時代、桓武天皇が正丁(成人男子)の三分の一を徴兵していたのを、健児(こんでい)という有力者の子弟中心の、全国51ヶ国で3155人の軍隊に縮小、というより事実上の軍隊廃止をしてしまった。

この時代、武力を持っているのは、武装農民の武士である。しかし武士は、そのあまりの身分の低さのため、本来なら貴族以上の実力を持っているのに、貴族に平身低頭し、犬のように仕えている。

(しかしその武士も、王家の内紛に介入させたらとんでもなく力をつけることになろう。その時は武力のない公家や王家では抑えられぬ)

そう思い、雅仁親王は毎日歌い遊び暮らしていた。

元来、皇位に縁がない気楽な立場である。

親王の兄、崇徳上皇は曾祖父の白河法皇の意向で天皇になったが、崇徳上皇の母の待賢門院は鳥羽法皇の寵愛を失っており、もっぱら法皇の寵愛は藤原得子(美福門院)にあった。法皇の美福門院への寵愛のおかげで、雅仁親王には皇位は巡ってこず、異母弟の近衛天皇に皇位が渡った。

となれば、雅仁親王に皇位が巡ってくる訳もない。

だから自分は遊び暮らしていればいいと、親王の暮らす邸宅には、端者(はしたもの)、雑仕、江口、神崎の遊女、傀儡師など身分の低い、様々な職業の人々が出入りしていた。

天皇家は元来、江戸時代の士農工商の階級外の卑賎の者達と浅からぬ縁があるのは、研究者によって度々指摘されるところである。

なぜ天皇家と卑賎階級がつながるのか、その理由は完全に解明されてはいないが、それにしても雅仁親王への卑賎の者の出入りは多い方と言えるだろう。


時に久寿2年(1155年)、

雅仁親王は、鳥羽法皇に呼ばれ鳥羽殿に赴いた。

「ーー帝がいよいよ御危篤であられる」

と、鳥羽法皇は悲しげに言った。

近衛天皇は2年前から病気だった。

病のために失明の危機に陥り、そのため関白の藤原忠通に譲位の意志を伝えたほどだった。

(え?これはーー)

親王は悲しくない訳ではなかった。異母弟とはいえ弟である近衛天皇の病を悲しんでいたが、それとは別に気になることがあった。

近衛天皇は若干17歳。子もいない。

「もし帝に何かあれば、そなたが即位せよ」法皇は言った。

法皇の狙いは、雅仁親王の嫡子守仁親王にあった。

守仁親王は雅仁親王の第一子だが、守仁親王の生母で雅仁親王の妃の源懿子(みなもとのいし)は守仁親王を生んでまもなく死に、守仁親王は鳥羽法皇に引き取られ、美福門院に養育されていた。

しかし守仁親王を天皇にしては、その実父である雅仁親王の立場がまずくなる。子が父を越えるようなことは、昔は避けた。

そこで守仁親王を中継ぎの天皇にしようということになったのである。

(まずいことになったーー)

屋敷に戻った雅仁親王は、信西を呼んだ。

信西は、雅仁親王の乳母の夫である。

信西はまもなくやってきた。

「これはまずいことになり申した」

と、信西は言った。

「まずいであろう」

と、雅仁親王も言った。

雅仁親王の兄の崇徳上皇は、母は同じだが、実は父親が違う。

崇徳上皇の本当の父は、雅仁親王の曾祖父の白河法皇である。

「鴨川の水、すごろくの賽、山法師」以外はなんでも思いのままになると述べた独裁者だった白河法皇は、まだ幼かった雅仁親王の母の待賢門院を祇園女御と共に養育した。

待賢門院の若い頃に、摂関家の藤原忠通との間に縁談が持ち上がったが、「璋子の素行に噂があり」とのことで、忠通の父の忠実が固辞した。

白河法皇は、璋子に手をつけていたのである。

そして藤原忠通に嫁ぐことのできなかった璋子は、白河法皇の子を妊娠したまま、鳥羽天皇に入内した。そうして生まれたのが崇徳上皇である。

もちろん鳥羽法皇もそのことを知っていて、崇徳上皇のことを「叔父子」と呼んでいた。白河法皇は鳥羽法皇の祖父だから、その子の崇徳上皇は鳥羽法皇の叔父になる。

崇徳上皇が皇位についたのは、白河法皇の意向である。

白河法皇の死後、鳥羽法皇は崇徳天皇を譲位させて近衛天皇を即位させた。

その近衛天皇が死の淵にあり、天皇が崩御し、雅仁親王が登位しなければ、崇徳上皇の皇子の重仁親王が即位することになる。鳥羽法皇はあくまで、崇徳上皇の系統に皇統を渡したくなかった。

「これはゆゆしきこと、後院(崇徳上皇)はどのように思し召すやら」

と、信西は言った。

今はいい。鳥羽法皇がいるので、崇徳上皇を抑え込んでおける。

しかし鳥羽法皇が崩御すればどうなるだろう。

院政を行う上皇や法皇を、「治天の君」という。

「治天の君」になるには、天皇の直系尊属である必要がある。つまり天皇の父や祖父でなければならない。

近衛天皇への譲位にあたっては、近衛天皇は崇徳天皇の「皇太子」ではなく「皇太弟」とされたため、崇徳上皇は院政ができなかった。

雅仁親王が即位しても、崇徳上皇は「治天の君」にはなれない。しかしだからといって、崇徳上皇を抑えるものもないのである。

(本当は後院が治天となるのが一番良い)

と、雅仁親王は思っていた。

しかし、鳥羽法皇は雅仁親王の父であり「治天の君」である。その存在は絶対であった。その命令を、雅仁親王は拒めない。

「ほんにゆゆしきこと」と、信西は繰り返した。

(よく言う)

信西の目が輝いているのを、雅仁親王は見逃さなかった。

信西は、俗名を藤原通憲といい、また高階通憲ともいう。

通憲の藤原氏は代々学者の家系だが、信西は父の藤原実兼が早くに死んだため、縁戚の高階氏の養子となった。

通憲は、学者として身を立てたかった。

通憲は博覧強記で知られ、通憲の祖父の藤原季網は大学頭にまでなった学者だった。しかし当時は職業の世襲化が進み、高階姓になった通憲には、父祖の家業を継いで学者になる道はなかった。

通憲は世を儚み、出家をしようと思い立った。

鳥羽法皇は通憲の博学を惜しみ、通憲を高階姓から藤原姓に複し、正五位下、小納言に任命し、さらに通憲の息子の俊憲に、大学頭に就任するための受験を認める宣旨を出した。相当の厚遇といっていいが、それにもかかわらず通憲は出家して信西と名乗った。

それでも信西は、俗界を離れる気はない。

「ぬぎかふる 衣の色は 名のみ゙して 心を染めぬ ことをしぞ思ふ」

と、信西は歌った。

(お主の魂胆は見えておる。まろを担いで自分の思う世界を描こうとしておるのであろう)

雅仁親王は思った。

信西は、妻が乳母を務めたことで、雅仁親王を我が子のように思っている。

雅仁親王もまた、信西を父親のように思っている。

博学な信西の目指すものが、雅仁親王には見えていた。すなわち現状の権門勢家の世から、律令的中央集権体制への逆転である。

(このようなことにならぬよう、まろは遊び暮らしていたというのに)

思えば、2年前に近衛天皇が譲位の意志を示した時、鳥羽法皇は天皇に面会できなかったため、天皇が譲位したいというほどの重体だと忠通が告げた時に、忠通が嘘を言っていると思った。

(思えば、その頃からこのように仕組んでおったか。しかし信西、その道は王家が道を誤るぞ。武士が台頭し、王家が滅びることとなる)

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