後白河法皇⑩

清盛の妻の妹平滋子は、皇子憲仁を生んでいる。ここに平家と後白河上皇の太いパイプがある。
しかし二条天皇と清盛の間には、このような関係はない。
だから二条天皇の政治が続いても、平家は今以上の繁栄は望めない。
(だが清盛がどんな国を作ろうとしているのかーー見たい。悪左府も信西も国がどうのと常に言っておった。王家でない者が権力を目指すと皆そのようになるのか?)
近年の清盛の活躍はめざましい。
というよりも、物に狂ったように日宋貿易に力を入れていた。
清盛は日宋貿易で得た富を京に運ぶため、大輪田泊(現在の神戸)に着眼していた。しかし港湾施設は度々南東風によって破壊されていた。
そこで清盛は、人工島を作って風浪を防ごうと考えた。
応保2年(1162年)に工事を始めたが、この時は大風によって失敗に終わった。
翌長禄元年(1163年)に工事を再開したが難航し、人柱を立てて工事をしようという話になったが、清盛は人間を犠牲にするのを嫌い、一切経の経文を書いた石を基礎として、ついに人工島を完成させた。そのためこの人工島は経ヶ島と呼ばれた。
また現在広島県呉市にある音戸の瀬戸は、元々本州と陸続きだったのを清盛が開削して海峡にしたという。
もう少しで完成というところで日が観音山に沈もうとしていたのを、清盛が金扇を広げ「かえせ、もどせ」というと日は登り、工事を完成させたという話がある。
(まさか)
と後白河上皇はその話はさすがに一笑に付したが、近年の清盛の日宋貿易への取り憑かれ方は尋常でない。
もちろん貿易は以前からやっている。
しかしそれだけでなく、本来九州で行っていた日宋貿易を畿内で行いたいという思いを隠さなくなってきた。
そして清盛は、本格的に厳島神社の社殿の造営に着手した。
何でも話によると、海の中に朱塗りの大きな鳥居を建て、海に向かってこれまた朱塗りの社殿を建て、満潮時には社殿は海に浮かぶという。
(海に浮かぶ社殿とは……余は安芸まで観に行けるだろうか)
熊野詣でを34回した後白河上皇も、熊野が京に近いからできることであって、安芸までの遠出は、ひとたび権力を握ればできないことはない上皇といえども難しいだろう。
二条天皇の親政で、平家の躍進は頭打ちになっており、余りに余ったエネルギーが鬱屈して日宋貿易に向かって流れているが、そのエネルギーも行き場を失えば腐ってしまう。
(王者など退屈なものじゃ)
と、後白河上皇は思う。この国の王者はである。
王者と言っても、諸勢力の上でバランスを取るのがその役割である。
理想もない。平安初期から権門勢家の台頭が始まり、朝廷は権門の権益を保護する立場になっている。朝廷はこの権門勢家に国家の運営能力を奪われているのだが、王者は運営能力を取り戻そうとはせず、せいぜい特定の権門の力が強くなりすぎないように圧力をかけるだけだった。
(しかし清盛には、新しい国家を築く意志がある)
ここで後白河上皇は迷う。清盛に政権を持たせるべきか。
(帝なら答えは当然否であろうな)
そして清盛の力が大きくなりすぎた場合、白河法皇が源氏にしたように、清盛を抑え込むことができるか。
(ーーできる。余はしてみせる)
時は流れ、鉄板のような二条親政も、少しずつ綻びができてくる。まず長寛2年(1164年)関白藤原忠通が薨去した。
ついで長寛3年(1165年)3月28日に太政大臣藤原伊通が薨去した。
(これで清盛を昇進させる隙ができた。今、余にもう少し力があったらの)
と後白河上皇が思っていた矢先、二条天皇が病気になった。
(なんと、帝が?)
後白河上皇は慌てた。仲が悪くても二条天皇は息子なのである。
6月5日、長寛から永万へと改元が行われた。
病の二条天皇は、前年に生まれた順仁親王の立太子の儀を行い、その日のうちに譲位したが、それから1ヶ月後の7月28日、二条上皇は崩御した。
(そんな、帝が崩御されるとはーー気の合わぬ御人であったが、崩御されてこのように寂しく感じるとは)
後白河上皇は、極めて真っ当に息子の死を悲しんだ。
二条上皇は、まだ23歳の若さだった。
後に残された六条天皇は、数え年2歳、史上最年少の幼帝である。
(まさかこのような形で望んだ展開が来ようとはな)
12月25日、後白河上皇は憲仁の親王宣下を行った。合わせて清盛を親王勅別当に任じた。
永万2年(1166年)7月、院近臣の源資賢が参議に補任された。
7月26日、摂政近衛基実薨去。
8月には、院近臣の藤原光隆、藤原成親が参議、藤原成範、平頼盛が従三位になった。
二条天皇の中継ぎに過ぎなかった後白河上皇には、六条天皇に治天の君として振る舞う権限はないが、六条天皇には後白河上皇以外に後ろ楯がいない。もはや後白河院政を止める者はなかった。
院の近臣の官位は大納言が限界で、清盛は権大納言にまでなっていたが、後白河上皇は、
「勲労久しく積もりて、社稷を安く全せり。その功、古を振るにも比類少なければ、酬賞無くては有るべき」
と院宣を発し、清盛を内大臣に昇進させた。
それまで、大臣に昇進できるのは摂関家、村上源氏、閑院流(藤原道長の叔父、藤原公季を祖とする一門、西園寺家、徳大寺家など)に限られていた。
これに留まらず、後白河上皇は翌仁安2年、清盛を太政大臣に昇進させた。
類のない昇進と言っていいが、この清盛の栄達には種がある。
内大臣は臨時の官職に過ぎず、太政大臣は実際には職掌のない名誉職である。後白河上皇も、清盛を実権のある右大臣、左大臣にすることはできなかった。清盛も太政大臣を僅か3ヶ月で辞任した。
(しかしこれで充分)
時代は律令による太政官中心の世ではなく、複数の勢力が共存する権門勢家の世である。太政官の高官でなくとも政権は築ける。
10月10日、後白河上皇の皇子憲仁親王の立太子の儀を行われた。
場所は摂関家の三条殿である。
ならば憲仁親王の立太子も摂関家の意向を踏まえてのことかといえば、そうではない。
先の摂政近衛基実は藤原忠通の子だが、清盛の娘盛子を妻に迎えていた。基実22歳、盛子9歳の時のことである。
しかし基実はその2年後に急死する。
つまり盛子はわずか11歳で未亡人となったのだが、その際摂関家の荘園も盛子が管理することになった。
もちろん実質的には、盛子の父の清盛が管理することになる。
こうして清盛は、期間限定とはいえ、摂関家の荘園も手中にすることになったのである。
つまりこの時期は、摂関家さえ清盛の自家薬籠中の物だった。
春宮傅には近衛基実の弟の九条兼実、春宮大夫には清盛が任じられた。
(こうなると、この御所は狭いな)
後白河上皇は思った。狭くて儀式に対応できないのである。
そこで新たに法住寺南殿を改築し、仁安2年(1167年)1月にそれは完成した。
5月10日、後白河上皇は清盛の長男の重盛に、東山、東海、山陽、南海道の山賊、海賊追討の院宣を下した。
事実上、平家が日本の軍事、警察権を握ったことになる。またこの人事により、重盛が清盛の後継者であることを内外に示した、
厳島神社に社殿が完成した。この社殿は現代に至るまで変わらない姿でいる。
(余もいつか厳島に行こう)
と、後白河上皇は思った。
仁安3年(1168年)2月、この月は事が多い。
後白河上皇は、この時も熊野詣でに出かけていた。
しかし2月7日、清盛が病に倒れた。
後白河上皇は、熊野詣での帰りの途中でこの報を聞いた。
後白河上皇は帰り道を急がせ、浄衣(宗教的な儀式に着用する衣装)のまま六波羅に見舞いに駆けつけた。
(清盛よ、余に仏国土を見せてくれるのではないのか)
清盛は永久6年(1118年)生まれの51歳である。
後白河上皇は清盛の9歳年下の大治2年(1127年)生まれの42歳。
清盛の病は、寸白(さなだむし)だった。
清盛の病気は、九条兼実がその日記『玉葉』でも、政情不安につながると危惧されていた。
(これは憲仁親王の登位を急がねばならぬ)
19日、六条天皇が譲位し憲仁親王が践祚した。高倉天皇である。
病から回復した清盛は、大輪田泊に隣接する福原に雪見御所を造営した。この雪見御所から、日宋貿易をより拡大する指揮を執る構えである。
日宋貿易は遣唐使の廃止後も摂関家などを中心に行われていたが、宋(南宋)と国交を結ぶには至らず、私貿易に限定されており、貴族の間でも認知が低かった。
また清盛は雪見御所に隠遁することで、政界からは引退した。
(先のことはわからぬ、余もいつ死ぬことになるか……)
清盛の病は、後白河上皇に急に世の儚さを感じさせた。
9月23日、後白河上皇は清盛に命じ、、播磨の圓教寺に一切経千余巻を施入させた。
仁安4年3月、後白河上皇は高野山に詣で、その帰路に福原の雪見御所を訪れた。
4月、滋子に建春門院の院号を宣下。
年が開けて嘉応と改元された1169年の6月17日、後白河上皇は出家した。
法号を行真という。ここから後白河上皇は法皇となる。
翌年の嘉応2年(1170年)4月20日、後白河法皇と清盛は東大寺で受戒した。
清盛は法号を浄海とした。
(清盛の仏国土を見るには、余も貿易を知らねばな)

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