後白河法皇②

この時代、学識が高い貴族には二通りの道がある。

ひとつはその学識を誇って、天皇親政、律令の遵守、中央集権志向、実力主義の官僚登用を実施しようとしているように見せかけることである。菅原道真などがその例で、道真の時代は「延喜・天暦の治」と言われ、律令に基づく政治が行われたように言われているが、実際には摂関政治の安定によって支えられた、律令的中央集権国家から、いくつもの権門に分立した分権的国家への過渡期に過ぎなかった。この時代には、そういうごまかしの装飾された表現が多い。

もうひとつは、本当に天皇親政の中央集権的国家を目指す政治家となることである。例としては天皇親政ではなかったが、応天門の変で有名な伴善男を挙げられるだろう。伴善男の活躍は徹底した律令回帰主義だった。

信西は、律令回帰的な中央集権国家を目指していたのである。

(無理だ、公地公民制がここまで崩れた今となっては)

だが信西は止まらない。

権門勢家の体制を中央集権国家に逆転させるには、

「乱あるのみ゙」

と、信西は思っていた。乱を起こし、それに勝利することで天皇家のカリスマを高め、中央集権体制を作り上げるのである。

(信西はわかっていない。いくさをするのは我ら王家の者ではない。もののふがさむらいじゃ)

これまで朝廷は、武士を中央の政争には、決して直接には関与させてこなかった。だから武士は貴族にひれ伏すしかなかった。しかし政争のために武士をいくさに駆出せば、貴族は武士に返しようのない借りを作ることになり、武士が貴族に代わる支配者になるだろう。

信西は鳥羽法皇とも気脈を通じているはずである。しかし鳥羽法皇にも、いくさをすれば武士の世になるという考えはないのだろう)

(貴族は武士を甘く見ている)

と雅仁親王は思うが、信西や鳥羽法皇には説明してもわからないのだろう。

「まろは重仁親王が即位するのが一番良いと思うのだが」

と、雅仁親王は言ってみた。

重仁親王もまた、守仁親王同様美福門院の養子なのである。皇位継承の観点からいえば、守仁親王より重仁親王の方が順位は上であった。

「なんと!四ノ宮(雅仁親王)は帝位を望まれませぬか」

信西は驚いてみせた。

「問題は主上が後院を嫌い避けることじゃ。主上が重仁親王の登位を認めれば全ては丸く治まる」

「重仁親王では帝位は務まりませぬ」

「まろは主上に『即位の器量ではない』と言われておる」

「そのようなことは決して!」

「美福門院様も重仁親王を可愛がっておられる」

このように言うので、信西はこれ以上は押さずに退出した。

2、3日すると、

(人の出入りが少なくなったな)

と雅仁親王は思った。

それからまもなくして、

「帝が崩御された」

との報が雅仁親王に伝わった。

すぐに信西がやってきた。

「おお信西、帝にはおいたわしいことじゃ」親王が言うと、

「ほんに…」信西はうなだれた。

「それで、主上には申し上げてくれたか?」親王が言った。重仁親王を推挙してくれということである。

「四ノ宮、それはなりませぬ」と信西は首を振った。

「なぜじゃ、理由を言え」

「後院が悪左府と手を組み、帝を呪い殺したと噂が立っておりまする」

「なんと!」

悪左府とは関白藤原忠通の弟の、左大臣藤原頼長のことである。学識があり、妥協を知らない強情な性格から「悪左府(左府は左大臣の意)」と呼ばれた。

兄の忠通とは、23 歳の歳の差がある。

頼長は最初、忠通の養子になって関白の地位に就こうとした。しかし忠通に嫡子基実が生まれると、頼長は忠通の跡を継ぐ目がなくなった。

それ以後も頼長は忠通と権力争いをしていた。頼長が徳大寺公能の娘多子(まさるこ)を入内させると、忠通も藤原伊通の娘呈子(ていし)を養女にして入内させた。そして「摂関以外の者の娘は立后できない」と鳥羽法皇に奏上したりした。呈子もまた美福門院の養女であったため、忠通もこのように強引にねじ込むこともできたのだった。

鳥羽法皇も困ってしまった。

関白の奏上とはいえ、頼長も左大臣であり、無下にはできなかった。

鳥羽法皇は多子を皇后、呈子を中宮として、藤原氏の争いを回避した。


ところで、忠通、頼長の父の藤原忠実はなお存命している。

忠実は忠通を関白にこそしたが、弟の頼長を可愛がっていた。

忠通の横車に腹を立てた忠実は、忠通から藤氏長者の地位を剥奪し、頼長を藤氏長者とした。

また朱器台盤という、藤氏長者が継承する藤原氏の家宝がある。

朱塗りの台盤(貴人の食事を載せる台)と什器で、料亭などで出る膳のようなものかと思いきや、中国式のテーブルであるらしい。

中国式だから椅子に座って食事をし、テーブルだから来客と卓を囲むことができた。大餐の時に用い、大きなもの5つを含め27個あったという。この台盤が、4つの長櫃に収められていた。

元は藤原冬嗣(人臣初の摂政の藤原良房の父)が勧学院に収めたものだという。藤氏長者は勧学院別当を兼務していたから、藤氏長者の所有とみなされていた訳だ。

朱器台盤が勧学院にでなく、藤氏長者の邸宅に置かれるようになったのは、藤原兼家(有名な藤原道長の父)の頃だという。

この朱器台盤を、忠実は武士を派遣して、忠通の邸から強引に奪ってしまった。忠通は深く恨んだだろう。

さらに忠実は、忠通に京極殿領という荘園を譲渡していたが、忠実はそれも没収して頼長に与えた。

この争いに輪をかけたのが、頼長の異母姉藤原泰子だった。

泰子は鳥羽法皇の太皇太后で、忠通の同母姉である。しかし泰子は忠通でなく頼長に味方して、土御門殿という荘園を頼長に譲った。

そんな状況を見て、鳥羽法皇は頼長に内覧の宣旨を下した。

内覧とは、天皇に奉る文書や裁可する文書を先に見ることで、関白に天皇との血縁関係がない場合、関白の権限と変わらなくなる。つまり頼長は、忠通と同等の権限を得たことになる訳だ。

(危ういことだ)

と雅仁親王は思った。天皇家も摂関家も、ふたつに割れているのである。

「誰か他の者を即位させてはどうか?」

と雅仁親王は言ったが、

「他の宮様では務まりませぬ」

と信西は首を振った。

白河法皇によって、鳥羽法皇の皇子は、崇徳上皇を除いて出家させられていた。雅仁親王は白河法皇が崩御した時わずか3歳だったため出家せずに済み、近衛天皇は生まれていなかった。

他の傍系の皇族では、崇徳上皇に対抗できない。鳥羽法皇が崩御すれば、雅仁親王だけが崇徳上皇に対抗できるのである。

「まろは主上に『即位の器量ではない』と言われておる」と雅仁親王が言うと、

「そのようなことは決して!」

と信西は返した。

その後も押し問答が続いたが、

「ところで四ノ宮、近頃不如意はございませぬか?」

と信西が言って、雅仁親王は気づいた。

(ーーまろの実入りを少なくする気か!)

雅仁親王の荘園は、ほとんどが鳥羽法皇が管理している。

鳥羽法皇次第で、雅仁親王の収入を調整して実入りを減らすことができるのである。

「今様のお好きな四ノ宮のことでござりまする。さぞ物入りも多いことでござりましょうに、もし不如意のことがあればと思うとーー」

と信西は、見かけだけはしおらしげに言った。

「ーーまろが帝になっても、今様などできぬぞ」

雅仁親王は信西を睨んで言った。

「なんの、すぐに一ノ宮様(守仁親王)に高御位(皇位)をお譲り遊ばせばよろしゅうございます。院(上皇)におなり遊ばせば何をするも自由でござりまする」

(ーーこうならぬよう、今まで今様三昧で過ごしてきたというのに)

雅仁親王は思ったが、

「ーーよし、皇位に就こう」

と言った。

「ーー幸甚にござりまする」

と言って、信西は深々と頭を下げた。

(ーー王朝は終わるやもしれぬが、やるだけやってみようではないか。信西、そちは壮大な夢を描いているであろうが、そちの思うほど甘くはないぞ)


鳥羽法皇は話し合いや人間関係のバランスを重視する人だった。

近衛天皇の崩御後、次の天皇を決めるために関白藤原忠通や元右大臣久我雅定、内大臣三条公教が秘密裏に会合を開いた。

久我雅定と三条公教は美福門院と関係の深い公卿で、鳥羽法皇は雅仁親王擁立にあたっても、美福門院を通じて遠隔操作をしていた。

当然崇徳上皇の皇子重仁親王も候補に上がったが、守仁親王への中継ぎで雅仁親王が天皇となることに決まった。

こうして久寿2年7月24日、後白河天皇が践祚した。践祚は天皇の位に就くことであり、天皇になったことを天下に公表することを即位という。

以後、雅仁親王を後白河天皇と呼ぶ。

面白いのは、践祚の後に即位式があり、即位式の後に立太子が行われるのが通例なのだが、後白河天皇は践祚の後の9月23日に守仁親王の立太子が行われたことである。中継ぎの天皇として、いかに後白河天皇が軽く見られていたかがわかる。

即位式は、11月22日に行われた。

「全て、私めにお任せくださいますよう」

と信西は言った。

(うまくいけば良いがな。うまくいかぬ時はそちもどうなるかわからぬが、その時は見捨てていくぞ)

頷きながら、後白河天皇は思った。

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