見出し画像

インド旅行記「0:井戸を見に行く」

↑記事一覧はこちら↑

インドには900年かけて掘られた井戸があるらしい。

そのことを知ってインドに行った。

旅行は好きだけどこれまで海外旅行はしたことがなく、行きたいな行きたいなと思いつつ決心がつかないでいた。
それで実際、何度かの機会を逃し続けていたが、その度にパリの、イニシュマーン島の、プラハの、ジョグジャカルタの空想の領土だけが心の中に未消化で溜まっていくようだった。

今回は友人がインド・ムンバイに仕事で駐留していて、そこに泊まれるので行ってみないか、というお誘いだった。
少し迷った。それまでインドにあまり関心がなかったし、渡印に際して推奨されるワクチンの数と、実際に感染した際の症状を知って震え上がった。

だがインドはとても広い。

ここらで行っておかないと、今度は空想の領土が心に入りきらずに破裂してしまう恐れがあった。

実際に一度どこかの国に行ってさえしまえば、他の空想の領土も一緒に消化されるような気がした。

7月。ムンバイを含む西インドは雨期真っ盛り。サファリも船もお休みの観光最不適シーズンだった。
でも900年かけて掘られた井戸なら、そんなことはきっと関係ないと思った。どんな状況でも私たちをもてなしも拒絶もせず、きっとそこにあってくれる。

奄美大島で見た、平家の落人の遺構を思い出していた。それは手彫りの長い長い溝で、薄緑色のゼリーに見える異常に美しい海の底で、じっとしていた。
誰がどうして作ったのか知らないが、確かに誰かが彫っていて、それが今日ここにあってくれるというのは嬉しいものです。

幸い、井戸に最も近い町・ジャイプルと拠点となるムンバイは、飛行機一本でつながっていた。(観光シーズンにしかつながらない街もまあまあある)

一週間と少しの短い時間だが、人生初の海外旅行は、ムンバイとジャイプルに行くことに決めた。街を知り、井戸を見に行くのだ。


出発の日は夜明け前に家を出た。
利用するのはVietjet AirというベトナムのLCC。
フライト前日には機体トラブルでニュースになっていた。

そんな感じなので当然成田空港のすみっこ発である。
家から羽田までは30分もかからない位置にあるのに、わざわざ遠回りをするのもなんとなく旅っぽくてよいものだった。
これから移動する距離を思えば誤差と言える遠回りだというのもスケールだった。

子供の頃感じていたトイザらス並みに広大なチェックインカウンターの、一番奥にVietjet Airの受付はあった。

早めに着いたつもりだったがすでに長い長い行列ができていた。
利用人数も多いけど、他社と比べて明らかに手際が悪い。
同じマニュアルを何度も確認している。トラブルに関して奥に立っている責任者とのんびり相談をしている。(こういう時、自分がスタッフだったら緊急事態みたいな態度を出しながら相談とかしてしまう)トランジットシールを保護シートからゆっくり剥がしている。

手際が悪いというか、手際よくやろうというモチベーションがあまりなさそうだった。

列に並ぶお客さんもお客さんで、持ち込み禁止とデカデカと書かれているガスコンロのイラストそのまんまのガスコンロを持ち込もうとして揉めていたり、子供が迷子になったり、床に座っていたり、普通にイラついていたり、じゃがりこを撮影していたり、並ぶという態度にたくさんのバリエーションがあって、ごちゃごちゃしていて、まばらで、落ち着く空間だった。

1時間近く並んでついに自分の番が来た。小柄な男性スタッフに対応してもらった。複数いるスタッフの中でもひときわゆっくりシールを剥がしていたのんびり屋である。
トランジットで外に出ないで。英語できますか。そうですか。何か途中でトラブルがあっても自分でなんとかしてください。
それだけ言われて荷物は気づいたらどこかに消えていた。

首にクッションを巻くのが流行っていた。

飛行機は飛んだ。

座席は都バス並みの狭さで、最初何かの冗談かと思ったが本気だった。
窓からの景色も、さよなら日本と思う間も無く雲に入り、その後抽象的な白灰色のまま全く変化しない。
映画とか見れるディスプレイも当然ない。
タンスのにおいの巨漢が隣に。
こりゃ長い旅路になりそうだ。だった。

趣味:映画鑑賞と読書だが、移動する乗り物の中でそれらができない。
乗り物酔いはしないけど、なぜか全く集中できないのだった。意識が速度に追いつかないせいかもしれない。

しかし私も成人なので、自分の暇は自分で面倒を見ることができる。
こんなこともあろうかと折り紙を持ってきていた。

知っている折り方で紙を折っていると、脳から記憶を取り出して形にしているような気がして安らぐ。地図を見ずに方向感覚だけで街を歩くようなおぼつかなさと解放感。

隣に座った巨漢はおしゃれめな連ドラをiPadで見ている。
私は隣で折り紙を折っている。
しばらくしてわかったけれど、彼は決して自分の座席から体が出ないようにとても気をつかっていた。旅慣れているんだな、と思った。よく考えたら自分も大概巨漢なので、お互い様だった。

猿の親子と鶴の一家を作った。隣の巨漢がじっとこちらをみていた。
鶴をあげた。
喜んでくれた。

彼はアンドレアという名前で、日本に遊びに来ていたが職場のあるオランダに帰るところだった。
出身は「グリース」と言っていて、それが「ギリシア」であることに10分ぐらい気がつかず、名前あてゲームをずっと二人でやっていた。アンドレアは母国が出てこないことに寂しそうだったが粘り強く連想ゲームに付き合ってくれた。
たくさんの島があって(マルタとか?)、とても古い歴史があって(あ、イギリス?)、岩がたくさんある(え、シチリア島ですか?)……
ネットがなければわからないのは当たり前だが、ペンもないとこんなにも真相に辿り着くのに時間がかかるのか、と思った。ペンがあれば地図を書くことができるからね。
最終的に「イタリアの近くで数学を発明した」というヒントでついに答えに辿り着きました。本当に数学を発明したのかは知らない。

アンドレアとはいろんな話をした。
仕事のこと、旅行のこと、恋愛のこと、賃金のこと。
インドに行くのだと言ったら、なぜ日本みたいなパーフェクトな国からインドなんかに行くんだよ、と笑っていた。

自分はプラトンの子孫だと言っていた。この身体を見てよ。
プラトンの体格が良かった事をギリシア人も日本人も知っているということが、なんか凄まじい奇跡に思えて、泣くほど大笑いしてしまった。

アンドレアと友達になったのは航路の半分より前だったが、話をしていたらあっという間にアナウンスが流れ、お別れの時間となってしまった。

シートベルトランプがつき、私とアンドレアはシートベルトをしめてなんとなく前を向いて静かにした。
蟻よりも小さな虫が前のシートとシートの隙間を這っている。

しかし周囲のみんなは元気いっぱいだった。
そもそも通路にめちゃくちゃ人が立っていた。
添乗員が牛を追うように手で指示するが、ほとんどの人は従わなかった。添乗員は舌打ちをして首をかしげ、自分の席に座った。

飛行機は高度を下げる。
小さな子供が通路に座って泣いている。
せっかちな一家が座席の上から大荷物を取りだしている。
アンドレアが胸の前で十字を切っている。
添乗員はスマホで同僚に何かの動画を見せている。
窓ガラスの氷が溶けていく筋もの水滴になって震える。

雲が切れてベトナムの大地が広がり、初めての海外だ、と思う間も無く飛行機は着陸した。


空港についた。
ここまではただ乗ってるだけで良かったが、問題はここからである。
言葉も通じない中、自力でトランジットしなくてはいけない。

正規の手続きを踏まず間違って空港から出てしまうととても面倒臭いらしい。
先に同じルートでムンバイ入りしていたパートナーから乗り換え方の詳細を送ってもらっていたが、
きりんさんゲート集合と言われてぞうさんゲートに向かう、願書の書類を別の大学に送る、絶対に間違えられない予定を手帳に間違えて書き込む私である。正規の手続きを踏み外すことにかけては自信がある。

今回も早速分岐が現れた。右の明るい方には人が多く流れていき、逆にまばらに流れていくのは薄暗くて狭い方だ。
多分薄暗い方に行くのが正解なのだが……とよぼよぼしていると、後ろからアンドレアに話しかけられた。
道を教えてくれるのかなと思ったら、一体どこから連れてきたのか空港スタッフを従えていて、彼が案内してくれる。後について行けば大丈夫。と言ってくれた。
アンドレアは投げキッスを一閃、明るい方へ歩いて行って、すぐにたくさんの人の中に見えなくなった。ネイティブの投げキッスだった。

スタッフに通されたのは、質素なガラス張りの部屋だった。雰囲気がすごく社会主義っぽい。
映画「笑の大学」で役所広司が座っていたような、こんな事務的な机ある?みたいな机と椅子。無表情な制服の男。
「ムンバイ?」「あ、ムンバイ」
別れ際、なぜかちょっと笑いかけてくれて逆に動揺した。

綺麗で色々な人々の行き交う活気ある空港だったが、時折、先ほどの検問の人と同じ、いかにも社会主義国らしい制服姿の人間が、誰のことも一切信じないぞという雰囲気で足早に歩いていた。
この人たちには好きなおやつとかあるのかな、と思った。多分あるんだろうけど、それがどんなおやつなのか、想像することができない、そういうタイプの遮断オーラで全身を覆っていた。紫外線とかも入る余地がなさそうだった。

ターミナルからは遠くの山脈が見えた。なだらかで緑で、九州の山みたいだった。
出発まで時間がポッカリとあいていた。
立ち止まっていられなくて、併設されている土産店やレストランの前を何度も往復した。香水店から女性の大声が聞こえて、クレーマーかな? と思ったら店員が店内でくつろいで談笑していた。
香水店の気取った内装の中でパリッとした制服を着た数人の女性が、家のようにくつろいでいる様がおかしく、その時、そうか、ここは海外なんだ……とついに確信した。

空いているカフェに入って一息ついた。旅行気分でいつもだったら頼まないマンゴージュースをオーダーした。

これまでマンゴージュースを見掛け倒しのダメなやつだと信用していなかったけど、ちょっと草っぽい香りがして、それがマンゴー系飲料に感じるのっぺり感を克服し、果物ジュースとしてかなりの高みにある飲み物だった。
これまでの疑いが一気に晴れるおいしさでした。

昼下がりに飛行機はベトナムを立ち、ムンバイへと向かう。
1へ続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?