【星旅日誌】旅のひとことノート

 ある星で散歩をしていると、見事な湖があった。磨いた鏡のようにピンと張り、一面に夜空の星を映している。
 水際に観光案内板と小さな木の机があった。薄桃色の糸閉じノートと、短くなった銀鉛筆が置いてある。ノートの表紙には『ひとこと』と書いてあり、中を開くと、ここを訪れた人たちの言葉が数ページに渡って並んでいた。
 中にひとつ、目を引く風景スケッチがあった。備え付けの銀鉛筆ではなく万年筆で描かれているようだった。

「すみません、そのノートを見せてくださいますか」

 不意に声をかけられ振り返ると、大きなリュックサックを背負った青年が手をうずうずさせて立っていた。ノートを渡すと興奮した様子でページをめくり、
「あったあった、やはりここにも来ていた」と早口で言った。
「ノートに何があるのですか」と聞くと、
「ほら、この絵ですよ」と、先ほどの風景スケッチを指でトントンと示した。

「有名な絵描きの絵なのですか」
「いいえ。むしろ反対で、全くの無名なのです」

 青年は草原に座ると、リュックから小ぶりの水筒を取り出し、暖かいチョコレートをグラスに注いで渡してくれた。お返しにクリームを挟んだビスケットを渡すと、彼はそれをチョコレートに浸してもごもごと食べた。

「この絵の主はね、色々な観光地のひとことノートにこうして風景スケッチを残しているのです。サインはないけど、いつも同じインクを使っているのでぼくにはわかる」

 夜空のような濃紺のインクには何かの金属粉が混ざっているらしかった。完全に乾いているはずなのに、ノートを傾けるとペンの跡に沿って光の粉がゆっくりと移動する。青年はリュックからスケッチブックを取り出すと、ノートの絵を模写し始めた。

「この人の絵が好きなんですね」
「ええ。初めて旅先で見つけた時は、全然ピンとこなかったんです。そんなに上手なわけでもないし。でも別の観光地でこの人の絵を見つけた時、あ、また会えた、と思って。それ以来、追いかけるようになってしまった」
 青年は照れたように小さな声で言った。
「いつか本人に会いたいですか?」
「いいえ。サインを残さないような人ですし、私も言葉を交わしたいわけではないですから。絵の感想を伝えたい気持ちなら少しありますけどね」
「じゃあ彼のスケッチの横に感想を書いてみてはいかがですか。また彼がここを訪れた時、読むかもしれないですし」
「なるほど。それはいいかもしれない」
 青年は目を大きくして言った。
 彼はペンケースから木製の万年筆を取り出し、何を書くか迷っているのか、ペン先をノートにつけたり離したりを何度も繰り返したあと、ようやく「良い絵ですね」と絵の横に書き込んだ。

「こんなことしか書けなくて、情けない!」と青年は大きく息をもらした。
「いいんじゃないですか、『ひとこと』ノートなんだし」
と言うと、
「それもそうですね」と青年は笑った。

 青年と別れるころ、湖には朝焼けの青く透明な空が広がっていた。ぼくは新しい万年筆のインクを買いに行くため、湖を後にした。

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