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医療に傷つき、患者役割で癒される~「病院作業療法」見聞録~

年度末に皆様いかがお過ごしでしょうか。2月に転職した私はなんか年度末というよりは仕事を覚えるのに必死ですが、何とかやっております。

3月に入ってから、4,5年ぶりくらいの対面学会が2週連続であって、両方とも参加者も多く凄い盛り上がりでした。

一方で、この数年続いたコロナ禍は一体何だったんだろうかと思ったりもします。

未だに病院内でクラスターが起きたりして大変な思いをされている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

私は新型コロナが流行り始めた年の4月から病院へ転職して、コロナが落ち着いた年に病院を退職する、という病院が類を見ないほど大変な時期にだけ病院勤務をするという良くわからないムーブをかましてしまったわけですが…。

コロナ禍で普段にも増して感染対策などの「管理」が強化されている中での病院勤務で思うことがありましたので、病院勤務のことを忘れないうちに色々と書いていこうかと思います。

病院は本来であれば「医療に癒されて、患者役割で傷つく」という部分が多いと思うのですが、働いている中で逆の「医療に傷ついて、患者役割で癒される」という側面もあるなと思いこのタイトルにいたしました。

私が病院勤務をして感じたことなので、基本は私の主観オンリーです。

回復期、療養病棟で勤務していたため、急性期とかではもちろん違うと思いますし、一つとして同じ職場は無いと思います。

他の職場で働く方達の経験や感じたこととは間違いなくズレている部分がある前提です。

医療に傷つくクライエント

医療の良い面は医学的な管理のもとで、心身が癒されるということなんじゃないかと個人的には思っています。

しかし、一方で医療の中で傷つく患者がいること事実だなと思ったりもしました。

何に傷ついているのか…働いている中で感じたことを二つあげたいと思います。

一つ目は行き過ぎた「医療」です。

「あの人は‘’ニンチ”だからしょうがないのよ」
「”感情失禁”だからすぐ泣いちゃうんだよね」

本来であれば不安な人がいたり、泣いている人がいたら心配したり声をかけるわけですが、これら医学や医療の言葉を使うことで支援者が患者を人として接することが出来なくなってしまうということがあるんじゃないかと思います。

二つ目は行き過ぎた「管理」です。

医学的な管理のもと心身が回復するというのが病院の大事な機能かと思います。

支援者は助言や指導を通して患者を「管理」する必要がやはりあるのだと思います。

一方で過度になると「善き患者像」みたいなものが生まれてしまうなと感じました。

「本当に運動やってくれなくて困っちゃう」
「あの患者さん、話してても目標もないし、やる気もなくて」

「主体性をもって、目標に向かって取り組む、自ら機能向上を目指す」みたいな「善き患者像」みたいなものが出来上がっている雰囲気を感じます。

そこから外れてしまう患者は相対的に「悪しき患者」となってしまうわけで…。

「なんでやってくれないんですか」
「目標がないとダメですよ」

支援者は患者に「善き患者像」に近づいてもらうために「管理」をして、時には支援者が患者に傷つくような言葉をかけてしまうのかなと思います。

医療に傷つく支援者

一方で患者のみならず、支援者もまた行き過ぎた医療に傷ついているのではないかと感じました。

私が実習や、新人だった頃に投げかけられた言葉

「あなたはスキだらけ」
「患者に甘い」

まあ、私にスキがあるのは認めます…ほんとテキトーですし…笑。

「管理」をする人にはスキがあってはいけないし、また、「管理」を緩めるような甘さはあってはならないということなのかなと思います。

私自身はこの考えには未だに慣れないので、おそらく普通の医療従事者には一生なれないんだろうなということを思ったりもしているわけすが…。

「あの患者さんにはこういう運動をさせなきゃだめだよね」
「なんで、こういう練習をしなかったの」

先輩が後輩に指導する声が聞こえてきます。

本来このような人の「管理」をする視点は普通に生活をしていればあまりないわけで、病院で働いている中で少しずつ染まっていくものなのかなとも思います。

病院には病院のルールがある。世間とは違うのだ。しばらく病院から一歩も出た記憶のない病院の住民に、病院以外の世間の「普通」の人々の感覚などわかるはずもなくなっていた。

熊倉陽介 医療者の内なるスティグマ

患者役割に癒される

回復期病棟だといわゆる「患者役割」から仕事や家事、身の回りのことが出来るようにしていくことが目標となります。

患者役割という言葉はネガティブな言葉として使われがちですが、一方で、病院で患者役割になっているからこそできることもあるのではないかと思ったりもしています。

私が10年前に回復期で働いていたころと比べて、高齢化はどんどん進んで、肌感覚として、以前よりも経済的な余裕のない高齢の方が増えていいる印象があります。

そして老々介護や、親の介護で生活に余裕がない方達も入院されてきます。

「病院はご飯も出てくるし、本当にいいわ」

この言葉を聴いて、病院という安全が確保されている状況に気が付き、そして今の社会で生活していくことの大変さが自らの経験とも重なります。

危険な状況にあって、追い詰められ、混乱しているとき、人は自分のことを考えたり、感じたりすることはできません。そういうときに必要なのは、内面をどうこうするのではなく、環境にケアを配置することです。

斎藤環×東畑開人 臨床のフリコラージュ

病院という安心・安全な環境の中で、今までの生活を振り返り、今後の生活に向けてどうするかを考えることが出来る。

これは「患者役割」のメリットではないでしょうか。

管理と権利の狭間

私はリハビリテーションは「権利を徐々に本人へ返していくこと」が一つの要素だと思っています。

「管理」は責任を取る変わりに部分的に権利を預かること。

それをリハビリテーションの過程で少しずつ責任と権利をお返ししていくこと。

これを手助けするのが作業療法、リハビリ専門職なんじゃないかと思っています。

その中で「管理」と「権利」のバランスをとるために他の支援者と時には対立したり、時には協業したりしていくものなんだろうなと思います。

私の経験した「病院作業療法」はそんな感じでした。

患者の物語・生活史を知ること

「管理」を通して患者が非人格化されてしまうということに対しての考えをまとめて終わりにしようかと思います。

医療に与えられている大きな特権のひとつは、患者によってその人生の内奥への接近を許されるということである。

アーサー・クラインマン 病いの語り

疾患の話以外にも私たちは病いの語り、物語を知ることが出来ます。そのような物語や生活史を知ることが患者を非人格化していしまうことへの改善策になりうると思います。

この特権的な接近は、治療のためにもつ実際的な価値に加えて、少なくとも他にふたつの意味を持っている。第一に、ひとたび患者の伝記がケアの一部となれば、患者が、治療によって、その病の経験にとってユニークなものを剝ぎ取られ、非人格化される可能性はずっと少なくなる。第二に、それに劣らず重要なことだが、患者の経験に耳を傾ける経験によって、医者はそのケースに積極的な関心を持ち続けるようになる。

アーサー・クラインマン 病いの語り

患者、支援者、みんなが「医療」に傷つかないためにどうしたらいいのか、そんなことを考えていた私の「病院作業療法」だったのかもしれません。

さらば病院勤務!ではまた。

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