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虹蔵不見

娘が風邪をひいた。流行りのものではなかったし、熱も早々に下がったのだけれど、鼻水と咳が酷かった。食事もろくに食べず、授乳の頻度が増えた。
ほぼ一週間、病人状態が続き、やっと外出できるね、という時になってわたしがやられた。風邪症状もあったけれど、看病疲れもあったと思う。鼻がうまく通らないから、眠りが浅い娘に付き合って夜中に何度も起きたり、体調の悪さからくるぐずり、抱っこ対応。よく頑張った、わたし、と母に助けを求めてゆっくり寝かせてもらった。素直に助けを求められるようになったのも偉かったと思う。

思い返せば自分の体調が傾き始めたくらいから、どこからともなく焦りがやってきた。何かせねばと空回る心に、動かない身体、やらなければならない事、山積みになって、ますます焦る。そうなると、散らかっていくおもちゃ達や溜まっていく洗濯物が目についてじわじわとイライラ。
食生活は乱れ、インスタントに口にできるものばかり。体調が悪いから身体に良いものを摂りたいのに、つくる氣力がない。とりあえずあるものを食べていた。

沼にいたなあと今となってはわかる。でも、その時は全てにネガティヴで、今のことさえままならないのに、全然見えない先のことをやたらに不安がっていた。
わたしは大丈夫なんだ、なんて書いたはしからこれだ、という言葉が頭をよぎったけれど、でも、そう書いたことを恥じたり、やっぱりわたしなんて、とは思わなかった。沼にはいたけれど、そこで足掻いて、拗らせることはなくて、いや、多少は足掻いたけれど、深みに嵌らず浮上できたから、あ、やっぱり大丈夫だった、と思えたんだ。

多分、こういった沼はこの先もずっと出てくるのだと思う。避けられるようになるのかもしれないけど、また嵌まるかもしれない。でも、もしまた嵌っても無理に動かず、時を待てばいいんだって、今回、体感と共に学んだ。
とてもゆっくりな流れで陸地に着くのかもしれないし、干上がるのかもしれないし、誰かが助けてくれるのかもしれない。
でも、とりあえず、慌てず動かなければ飲み込まれることはない。不安だし、居心地は悪いけど、沼からしか見えない景色もあった。次回は、その景色を楽しむ余裕が生まれたらいいな。

古くの季節によれば、今は「虹蔵不見(にじかくれてみえず)」らしい。日が短くなり、どんよりと曇りがちな冬の時期を表す言葉だそう。まさにそんな感じの一週間だった。

わたしの場合は、自然の中に身を置くことで沼から早く抜け出せたような感覚があった。のんびり娘と公園で遊んだのがよかったのかもしれない。でも、それもこれも、動けるようになったからできたこと。

まずは健康で、元氣であること。ありきたりだけど、そこが一番、大切なんだよなあ。

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