往復note(6):芸術が身体的に「わかる」ことについての回答

https://aizilo.hatenablog.com/entry/2021/11/07/210143

Kさんこんにちは。

>一年のほとんどを怠惰でいても生きていけるのが理想的なんではないでしょうか。

生物は寝ている状態がデフォルトで、覚醒を進化させたという研究があります。眠たいのに仕事に行く、決められた時間内にご飯をお腹に詰め込む、疲れているのに遊びに行くetc…こう思うと、怠惰でも生きていけることが理想かもしれませんね。怠惰だと人間の知性がうずき始めるので、知性を働かせながら生物のシグナルに逆らわずに生きるのが良いかもですね。足るを知る社会にならなければできない生活ですが、、、(笑)。

Kさんにとって生きることは他者である人間の意識が重要なのですね。生に執着がなく、非人間との方が親和性の高い身としてはとても興味深い感覚です。

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さて、Kさんからいただいた質問に回答します。

Q, …吉岡さんは、抽象絵画について”「分かる」とは合理的な理解や納得ではなく、そこにはある種の身体的跳躍、意識のモード変更といったものが含まれている”と言われているんですが、アーティストであるTさんが「わかる」って思う時は、何か身体的に感じるんでしょうか?「わかる」ことと、それを言語で表現することは違うということをわかった上で敢えて聞いてみたいと思います。対象は特に抽象絵画に限るということではなく、一般によくわからないと言われている現代アートの作品のことでもいいので教えて下さい

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さきに、現代アートの「わかる/わからない」については上記にリンクしたのテキストが的確なのかなと思います。その上で、私は絵を見た時に起こる生命感情にみられるような身体反応が「起こる/起こらない」という意味での「わかる/わからない」についてお話しします。


先に結論を述べると、絵はゲームの作法でもって見ることもできますが、それと同時に意識しなくても動き続ける身体側に属するイメージを含有しており、その能力によって引き起こされる鑑賞者の反応自体が絵の本質であり人々がわかろうとする対象なのだと私は考えます。それは「わかる/わからない」というよりも「受容できる/できない」の問題なのです。前回の匂いの話の続きになりますが、絵にも匂いが保存されるのでしょうね。甘いとか臭いとかって器官が認識する以前の匂いのイメージ、それが保存されていれば鑑賞者の無意識下の記憶を呼び起すことも可能です。それを受容するセンサーを鍛えなければ抽象画が「わかる」といった状態にはならないのではないでしょうか。(これを科学系の人に是非検証していただきたい…!これがわかればオカルトといわれるような現象も解明されるかも。)


何かをわかろうとした時に、以下のような状態になってしまうことがあるのは注意せねばなりません。以前私のバイト先の飲食店にある一見さんのお客さんが来られました。あいにくその日は満席であったのでお断りしたのですが、予約のお客が来るまでの30分だけで良いのでとのことでご案内することに。カウンター席で黙々と注文しお食事をされていたのですが、厳しく頭を悩ますような表情で「この店が何故こんなにも長くこの立地で続いているのか、魅力が何なのかを知りたくて来た。」と私にお話しくださいました。

(………いやあ、ちょっとむずかしいです(;^ω^))

ミシュラン店でも高級店でもない和気藹々系個人店に、お前をジャッジするぜ!!!暴くぜ!!!というスタンスでこられてもちょっと難しい。その厳しい匂いを掻き消すウェルカムフレーバーを出せるのが接客のプロなんでしょうけれど、初めから突っぱねながら来られるのはもったいないと思うんですよね。そういったことが絵と鑑賞者との関係の中でも頻繁に起こっているように思うのです。「これは何が描いてあるの?」「いつの時代?」「技法は?」から先に入ってしまう。まずは身体で体感した後で良いのではないでしょうか?


絵は描き手の無意識・超無意識を保存します。絵は描き手の身体と素材の能力を借りて量子的な動きをするのです。そもそも世界は私とその他に分かれた世界ではなく、この世界を構成する様々な要素が、貴賤のない要素が入り混じって成り立っているはずです。例えば2021年の作品「kiss」では銅人形の男の子を撮影していますが、それは素材としては人間の身体から銅の要素が際立っただけです。

絵の量子力学的で仏教的な振る舞いは、つかみどころの無い無重力の場を持ち不安定な私を立ち返るために引き戻してくれる不動のものであるから、永久に生き続け半永久的に保存可能な油絵のポテンシャルが高く発揮され得るのです。それを捉えるためにはまず世界の95%のことはまだ何もわかっていないという事実を先に身体で覚えなければなりません。と同時に、その95%と親密な関係性を持つ身体や心を人間が生来より持ち得ているということも覚えておかなければなりません。身体の能力を高めて意識を身体と絵画の戯れに委ねたとき、優れた芸術作品は抽象・具象、現代アートが内に孕んだ世界の可能性をキャッチできるのです。


先日京都の実験寺院寳幢寺の松波龍源さんに仏教についてのお話と瞑想指導をお願いしてきました。仏陀ってその行動からして明らかにHSP+ADHDなわけですが、学術的に仏教を研究されてきた龍源さんとこの認識は一致していました。そうなると仏陀の瞑想方法と異なる脳構造をしている人は同じ瞑想をしても暗中模索です。そこで龍源さんは唯識の概念的を理論的に理解して瞑想を行うことでガイドとする方法をとられていました。

この方法は、絵画を見るときにも画期的な方法です。もちろん、ここにも悟ったと勘違いする「魔境」の存在も同様にありますが。こういったアプローチの結果が「ある種の身体的跳躍、意識のモード変更」なのだと私は考えています。合理主義や科学技術の価値観ばかりになってしまった世の中には、この身体の跳躍はより重要性を増します。


仏教+科学の共同で、やっと死んだと言われた絵画をもう一度東洋的な思想で生き返らせることができる。そう私は希望をもっています。


さて、Kさんへの質問です。

先ほど「身体と絵画の戯れ」と言いましたが、日本人は何かと黒か白かをはっきり分けたがる傾向があります。有耶か無耶か考えるのは不毛なことも世の中には当然あるとおもうのですが、そういったことで最近なにか問題意識を抱いたことはありますか?

よければ教えて下さい。

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