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白猫ホームスと探偵 1/3


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 探偵・万画一道寸まんがいちどうすんが離れを借りて居候しているのは、大森の山の手にある『潮月ちょうげつ』という割烹旅館である。 
 探偵の仕事もそうそう毎日ある訳でも無く、万画一は大抵部屋でゴロゴロしながら書物文献を漁り、文机に置いた原稿用紙に向かって筆を走らせているのだ。
 何も世間に轟かせるような論文を発表しようと目論んでいるのでは無い、詰まらぬ日々の徒然をたらたらとしたためているだけである。さしづめ日記、または随筆とでもいう所であろうか。しかし、その文章は難解でとても一般庶民なる者達には理解出来そうもない代物で、つまりは活字や書籍にした所で全く売れもしない事は、当の万画一も重々に承知している。
 早い話が単なる道楽、暇つぶしの類なのだが、これまでに書き上げた原稿用紙の枚数は四千枚から五千枚にもなろうとしている。
 従って、万画一の部屋は沢山の文献・書物で埋め尽くされ、そこへ持って来て書き尽くして積み重ねたままの原稿用紙、または書き損じて丸めた用紙のゴミが散乱し、足の踏み場もないと言うのはこの事である。

 さて、万画一道寸がこの割烹旅館の離れに居候させて貰える事になった経緯は、こうである。
 当時、東京の大学に籍を置きながら一年間外国をふらふらとあてど無く旅して周った道寸青年は、殆ど有り金を使い果たし、浮浪者同然の、格好をして帰国した。
 手荷物は薄汚れた箱型のカバンひとつで、その中身は歯ブラシ、タオル、少しの着替え、そして外国で手に入れた希少本や役に立ちそうも無い小物類だけであった。
 行くあてのない道寸青年は、大学の恩師でもある同郷の学者・金庭狛蘭かねにわこまらん先生の宅へと転がり込んだ。
 金庭博士は道寸の海外旅の話しにすこぶる興味を示し、他国で巻き起こった途方もない逸話エピソードの数々を大層面白がり、手を叩き爆笑し、相槌を打った。
 それが博士のお気に召したのか、金も無ければ家も無いという道寸を『割烹旅館・潮月』に連れ出して、たらふくご飯を食べさせた後、女将の友恵ともえに離れの部屋を空けさせた。
 聞く所によると友恵は博士の五番目の愛人だという。そしてこの割烹旅館も博士がオーナーをしているとのことである。
 その日から道寸の居候生活が始まり、ほどなくしてそこで万画一探偵事務所を開業する運びとなったのである。
 女将の友恵という女は、博士とどこでどう知り合ったのかは知る由もないが、明るくて器量の良い、四十手前の未亡人である。この『潮月』の女将を任されて以来、持ち前の面倒見の良さが手伝って、客達の評判も非常に良く、従業員達には慕われ、商売繁盛この上なしという見事な経営手腕を発揮していた。

 その友恵女将がある時、離れの万画一の部屋を訪ねて来た。
「万さん、いらっしゃる?」
 万さん。普段、女将は万画一をこう呼んでいる。
「はい、何かご用ですか? 女将さん」
 書き掛けの原稿用紙から筆を上げ、万画一は返事をした。
「ちょっとご相談が御座いまして」
 障子の向こうで女将は膝を折り、そう呼び掛けた。
「あ、どうぞ、お入りください」
 万画一は素早く入口付近に散らばった紙屑や書物を脇に片付ける。
「では、失礼致します」
 障子を開け、女将が部屋に入って来る。
「むさ苦しい所ですみません」
 万画一は頭の上の雀の巣の様な髪の毛を掻き毟った。
「いえ、そんな事、ちっとも構いませんのよ」
 女将は万画一の差し出した座布団の端の方に小さく膝を揃えて正座した。
 和服姿の女将が腰を据えると万画一の部屋も、そこだけ明るくなった様に見えるから不思議だ。
「あ、今、お茶でも」と万画一は慌しく座敷机の上の急須に手を伸ばそうとする。
「あら、いいのよ。お構いなく。そのままで」
「あ、そうですか、すみません、で、何です? ご相談と仰るのは?」
「ええ、それなんですけどね」
 と、女将は話を始めた。
 それはこんな様な事であった。

 高輪のマンションで暮らす、女将の友人藤原加奈子ふじわらかなこが、この所付き合いの茶会にも全く顔を出さず、部屋に閉じこもったままでいるという。
 そこで、女将は出掛けたついでに加奈子の部屋を訪ねてみた。するとドアを開いた加奈子は随分青白い顔をして出て来た。
 心配になって何があったのよと、いろいろ問い詰めてみたところ、先月末頃より夫が突然帰って来なくなり、携帯も繋がらず、連絡もない、それで会社に電話をしてみると、加奈子の主人である藤原公生ふじわらこうせいはすでに退職したと告げられたと言うのである。

「そ、それは、し、失踪って奴じゃないですか? 女将さん」
 万画一は興奮すると吃ってしまう癖がある。
「ええ、おそらくその様ですの」
「け、警察には届けを、だ、出しましたか?」
「ええ、もちろん、失踪届けは提出したらしいです」
「それで、何か進展はありましたか?」
「いいえ、何も」
 女将は悲しそうに首を振った。
「それと……、これは今朝の事なのですが……」
「はい」
 万画一は少し膝を乗り出して女将の話す次の言葉を待った。
「加奈子から電話がありまして……」
「ええ」
「泥棒に入られたかも知れないんです」
「ど、泥棒ですか! な、何か盗まれましたか?」
「ええ、金庫の中のダイヤが消えたって、言うんですの」
 万画一はその言葉を聞くと数センチ飛び上がった気がした。

 その日の内に万画一は高輪のマンション、藤原加奈子の自宅を訪ねていた。もちろん事前に女将から連絡はしてくれてある。
「わざわざすみません」
 加奈子はスラっとした細身の女性で美人ではあったが、どこか薄幸そうな印象を受けた。夫が失踪し、ダイヤが盗まれてしまったとあれば、そう見えるのも仕方ない。
 リビングに通された万画一はふかふかのソファに戸惑いつつも早速、本題を切り出した。
「盗難届を出さないとお聞きしたのですが、それは本当ですか?」
 女将からそう聞かされていた。
「はい、実は、おそらく主人が持って行ったと思うものですから」
「失踪中のご主人がですか? でも、もしや、ご主人から家のキーを奪った別の誰かの仕業とも考えられませんか?」
 加奈子はそこでハッとした様子だったが、
「それは、考えませんでした。でもいずれにしても疑いは主人にかかるでしょう。もし、指名手配などされたりしたら……」と、狼狽える。
「失くなったのはダイヤだけですか?」
「はい、他には何も」
「金庫に入れてあったとお聞きしましたが」
「はい、別の部屋です。鍵はここにあります」
 加奈子は電話の下の引き出しを指差す。
「盗まれた時間帯とか詳しく判りますか? その時、あなたはどこで何をされてましたか?」
 万画一の質問に、加奈子は多少躊躇していたが、やがて語り出した。
「はい、あの……、今朝は気が動転していて友恵さんには詳しくお伝えしなかったのですが、そのダイヤがいつ無くなっていたのかは、よく分からないのです。金庫を開ける習慣がないものですから。お恥ずかしい話ですが、気が付いたのが昨夜の事でして……」
「金庫は鍵を閉めて扉も閉まっていたのですね」
「はい」
「で、金庫の鍵は、ちゃんと元の位置に戻してあって?」
「そうなんです」
「えっ、それでしたら盗難ではなく、ご主人が失踪する前に持って行かれたということも考えられますね」
「はい、申し訳ありません。おそらくその可能性が高いと思います」
 万画一は溜息をついた。
「そうでしたか……」
 それならば話は違って来る。

「おや?」
 万画一達のいるリビングに廊下から小さな白い猫が一匹、歩み寄って来た。
「猫をお飼いなんですか!」
「ええ、そうなんです。ホームス、おいで」
 加奈子は手招きすると、猫はピョンとソファに飛び乗り丸くなった。
「ホームズって言うんですか?」
 万画一が聞くと、
「いえ、ホームスです。スは濁らないんです」
「あ、それはまた変わった名前ですね」
「ええ、もともとの飼い主が飼えないからと言って捨てられたんです。まだ生後間もなかったのですけど。それを主人が可哀想だと引き取って来て、預かってるんです。最初はホームレスなんて夫が呼ぶものですから、それじゃあんまりだわと、レを取ってホームスと呼ぶ様になりました」
 加奈子はそう言うとようやく微笑んで見せてホームスの頭を撫でた。ホームスが「ニャー」と鳴き声を返した。
「なるほどそうですか? それにしても見事な毛並みですね。あ、目の色が片方違うんですね」
 見るとホームスは右目が青色、左目は黄色……と言うよりは金に近い色をしている。何だか神秘的だ。
「オッドアイって言うんですよ。白猫には割りと多いそうです」
「そうなんですか」
 万画一は嬉しそうに頭をガリガリと掻いた。ホームスはフンとそっぽを向いた。
「あ、そうそう、それでダイヤ紛失の件とご主人の捜索を僕に依頼されたいという事ですね」
「はい、あまり事を大袈裟に騒がれたくないものですから、どうか内密にご調査をお願い出来ないでしょうか?」
「ああ、それはもちろんです。僕で宜しければ、お引き受け致します。ところで大事な事をひとつ聞き忘れてました。そのダイヤはおいくらぐらいの代物なのでしょうか?」
「はあ、あれは主人が藤原家の財産という事でご両親から譲り受けた物なのですが、正確な値段は私には分かりませんが、主人が言うには二千万円位の価値があるとか……」
「ええ⁉︎  二千万円ですか!」
 万画一は再び飛び上がる事になった。

つづく

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