誰かの楽しさに共感する

 確か、小学校5年生のときだったと思う。私の小学校は、3年生と4年生、5年生と6年生は複式学級だった。複式学級とは、人数が少ない学校で採用される学級形態で、複数の学年が同じ学級で生活をする。5年生と6年生のクラスでは、6年生が前の黒板の方を向き、5年生が右側のホワイトボードの方を向き、授業を受けていた。担任は一人なので、授業の時間は半分ずつだった。

 あるとき、国語の授業で椎名誠さんの「やどかり探検隊」を読んだ。詳しい話は忘れてしまったが、小学生の兄弟2人が、夏休みを利用して、親戚のおじさんと無人島に泊まるという話だったと思う。無人島に泊まった夜に、おじさんが2人のために、ソーミンチャンプルーを作ってくれた。

 ソーミンチャンプルーは沖縄の家庭料理で、茹でたそうめんとシーチキン、野菜を炒めた料理だ。私は東北の生まれなので、ソーミンチャンプルーどころか、沖縄料理自体も食べたことがなかった。それは、同級生たちも一緒で、作中の食事シーンはみんな大興奮だった。

 その興奮を知ってか、先生が「じゃあ、作ってみよう」と提案した。しかも、国語の時間に6年生に内緒で、作って驚かせようということになった。

 6年生に知られずに作るにはどうすればいいのかみんなで話し合った。いつ作るか、どうやって教室から移動するか、においで気づかれるのではないか-みんながいろいろな意見を出し合った。

 当日、朝早めに登校して、こっそり家庭科室に材料を運んだ。先生が授業を入れ替えて、国語を給食の前の時間にしてくれた。あんなに国語の時間が待ち遠しかったことはなかったと思う。

 家庭科室は教室のすぐ隣だったので、授業が始まると先生が「5年生は家庭科室で、音読テストの練習ね」と言い、さりげなく5年生を移動させてくれた。私たちは、嫌々という雰囲気をだすために、打ち合わせどおり、口々に「えー」とか「緊張するな」とか言っていた。

 家庭科室では、別のクラスの先生がサポートで入ってくれて調理を進めた。しばらくして担任の先生が見に来てくれ、作業を仕上げた。

 授業の終わりの時間になって、5年生は何食わぬ顔で教室に戻った。「難しかった」とか「うまくいかなかった」とか、さも音読テストをやってきたかのように席についた。

 給食の用意が終わり、先生が「実は」と5年生が作ったソーミンチャンプルーをみんなに披露した。何人かの6年生は、「そんなことしてたんだ」と驚いてくれた。こっそりそんなことをしていたということや、気づかれずに作ったということでなんだか誇らしい気持ちだった。

 初めて食べたソーミンチャンプルーは、茹ですぎたのか麺の洗いが足りなかったのかやわらかく、なんだかべちゃっとしていた。それでも、計画から実行までが楽しく、とても美味しく感じられた。すると、6年生のある男の子が、「こんなの美味しくねえよあ!」と大きな声でいった。それに同調するように、もう1人の男子が「うん、あんまり」とつぶやいた。

 とにかく悲しかった。洗い立ての白いシーツに急に泥水をかけられたような、自分の誇らしかった気持ちがすぐにつぶされたような気持ちになった。

 今になって思えば、6年生からすると自分たちが勉強をしているときに、こっそり調理実習なんて楽しいことをされたらそれは楽しくないだろう。そこにきて、べちゃっとした初めての食べ物を食べさせられたのなら、嫌味のひとつでも言ってやろうという気持ちになるのかもしれない。

 そんなことは当時の私には推測できるはずもなく、何ていやなことを言う人だと軽蔑した。そして、自分は誰かが楽しい話をしたときには、同じように楽しんだり、嫌味や皮肉ではなく素直に素敵だねという気持ちを伝えられたりすることができる大人になりたいと思ったのだった。

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