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「〇〇なのに」と「すごい」の間にある深い溝

日頃感じていたモヤモヤや、自分の思い込みに気づけた瞬間をシェアするシリーズ、3日目です。

自分語りから始まって恐縮ですが、私はADHDと診断されています。これを言うと、時々、「ADHDなのに勉強ができてすごい」とか「ADHDなのに理系なんてすごい」と言われることがあります。

すごい系の褒め言葉には、ヘラヘラ笑って謙遜で返すことにしていますが……正直なところ、枕詞に「ADHDなのに」を入れられてしまうと、「これは褒められてるのか?小馬鹿にされているのか?」と、ちょっとざらざらした気持ちになります。


「ADHDなのにすごい」……どういう意味で使われてるんだろう?

私の成績が良いことと、ADHDであることに、どんな関係があると思って、「なのに」って言われてるんだろう。少し卑屈になりながら、そんなふうに思ってしまいます。

確かにADHDの特徴として、不注意や多動性、衝動性がよく知られています。だから、「衝動に負けずに勉強したのか、それはすごい」とか「ケアレスミスをどうやって防いだんだろう、すごい」というニュアンスなら、すごいで合ってると思うんですけど。よくもわからず、なんとなく「ハンデがあるのにすごい」と言われているような気がしまうのです。

私が優秀な成績をおさめるためには、集中力を維持するのが難しいといったADHDの特性を乗り越える努力と、勉強そのものに対する努力の両方があったと自分では思うんです。でも、「ADHDなのにすごい」と言われると、ADHDの特性を乗り越える努力ばかりが注目され、勉強そのものの努力が見過ごされてしまう。それでは、私の努力の半分を正当に評価してもらえた気がしないんです。

「障がいがあるのに、いろんなことにチャレンジしていてすごい」と褒められたときはもっと困ってしまいます。むしろADHDや双極性障がいの特性として、「いろんなことに手を出しちゃう」というものがあり、私はそこそここの特性が強めなようで、コントロールできずに悩まされているからです。なのにチャレンジ精神が強いことを褒められると、「私の何が大変なのかわかってないな」と思ってしまうんですよね。どちらかというと、私がコントロールに失敗してるってことでもありますから。

……まあ、こんなふうに他人の発言の揚げ足をとって自分の中でネチネチ悶々しちゃう時は、調子が悪い時だけですけど。


障がいがあると言うと、それだけが私の個性になっちゃう

障がい者が健常者と同じようにできたら「すごい」と褒められる。もしそれが、子供の学芸会を褒めたり、犬の芸を褒めたりする感覚と似てるなら……イヤだなぁって、思っちゃいます。

まるで、ADHDだからできないのが当たり前で、何かができたら特別だって言われてるみたいじゃないですか。できることもできないこともあるのは、障がいの有無に関係なく、誰でも同じはずです。障がい者を一括りにして、できないはずって決めつけられるのは、あまり気分が良いものではないです。

障がいの特性による困難を、私の努力のすべてだとして評価されてしまう。障がいの種類や程度が人によって様々だということを忘れられてしまう。結果、障がいの特性の一部だけが取り上げられ、私の努力や苦労が見過ごされている気がします。(被害妄想で、自意識過剰で、ごめんなさい。)



自分も、責める側になりうるから。

……と、偉そうに被害者ヅラして書いてきましたが、偏見や差別意識は、気づけてないだけで私の中にも潜んでいます。

例えば、留学生や英会話の先生に「日本語上手だね」とか「お箸使うの上手いね」とか、言っちゃったことがあるなとか。恥ずかしながら、褒められることに違和感があると話してくださった方の話を聞くまで、褒め言葉だと思って発していました。

だから多分、私にすごいねって言ってくれる人たちも、褒めてくれてるんだと思うんです。全く、悪気なく。だからこそ、自分に何ができるか考えちゃうんですよね。


想像力をめちゃくちゃ養って、歴史や文化をたくさん学んだら、世界の誰かが嫌な気持ちになることを全部、前もって避けられるのかな……とも思ったけれど、それでも限界があるかもしれません。

なので、誰かの想像の助けになるなら、そしてそれがその誰かの身近な人の気持ちを救うなら、私も自分の正直な気持ちを発信できることは発信してみようかなと考えています。(それが、このnoteたちです)。

と、同時に、だから、自分の感じている障がい(difficultyとか、barrierとか)について話してくださる方がいらしたら、その勇気に心から感謝して、相手の話に耳を傾けたいです。

例えば、電車に乗るのが苦手で、毎日大変な思いをしていると話してくれた方がいるとします。「障がいがあるのに、毎日電車に乗ってすごいね」なんて言葉をかけるのは、適切じゃないと思います。そうじゃなくて、「電車に乗るのが大変なんだね。どうしたらその苦労を減らせるだろう?」と一緒に考えていくことが大切だと思うんです。そういう場を、土壌を、作っていきたいな。

▼というわけで、匿名のコメント箱(マシュマロ)を設けています。


「障がいがあるからできない」のではなく、その人の特性を知ろうとすること。「すごい」と評価する前に、その人の苦労や努力を聴こうとすること。そして、障がいだけが個性だとして扱わないこと。そこから、初めて本当の意味での対等な関係が生まれると、私は信じています。


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