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ナチュラルに生きて好かれたい?

…そんなの当たり前前提!

というのは「絶対彼女」の歌詞なんだけど、この曲はこのあとこう続く。

ファビュラスマットなガチ赤リップもこれが私 きらめくの

絶対彼女/大森靖子

ありのままの自分を愛す、という手垢の付きはじめた言葉は確かに一種の境地、悟りみたいなものでそこにたどり着くことで救われる魂は多いと思う。ただ、それはあまりにも正しくて難しい。

ファッションやビューティーの話をすることが多いと、悟りに向かうどころか逆行しているんじゃ、という気持ちになることもある。正しい美しさ、正しいおしゃれ、それに近づけるようにありのままの自分を覆い隠していくテクニック…?いやいや、違うんだよたぶん本当は。

自分の髪型をどうするとか、リップを何色にするとか、どんなアクセサリーをつけてどんな洋服を着るかとかって自己表現の一種で、まずは自分と向き合わなきゃできないことだと思う。別にそんな真剣にやる必要もないけど、真剣にやる必要もない個人的なSNSをせっせとこだわって更新するみたいなもので、ご飯にこだわる人もいれば家にこだわる人もいて装いもそのひとつ。生活に基づいた趣味。ライフワーク的なもの。

「丁寧な暮らし」的なものがナチュラル嗜好に見えて実際ものすごく気が配られているように、自分のやりたいことをとことん突き詰めて身なりを変化させていくことは、たとえその結果がふりふりロリータでも派手髪厚底ブーツでも、その当人にとってはナチュラルであると言えないだろうか。いろいろ例外はあるにせよ、なんせ服装とは毎日するもので、自分自身として外部から見られるもので、あくまで衣装でしかないようなお仕着せのファッションを続けるなんて苦行はなかなかできない。ていうか結局自分が着たいものしか着ないよね。お金も手間もかかるし。

冒頭の話に戻ると、ガチ赤リップは不自然かもしれないけど「これが私」と考えている人にとってはそれこそがナチュラルな生き様である。のではないかという話。ありのままの自分、というときに全員が無印良品みたいになる必要はないよねそりゃそうか。歌詞における「ナチュラルに生きて好かれたい そんなの当たり前前提」という言葉には「お化粧しなくても顔が可愛くて髪の毛もさらさらで適当な服着て存在しているだけで誰からも好かれる」状態で生まれてきたかったよねそうだったらどんなにいいでしょうという意味が込められているのもまた、当たり前前提ですが。

(美しく生まれなかっただけで心底絶望してしまうような10代を過ごしてきたし、20代の前半も死にたかった。後半にさしかかった今も、たまに泣いたり、マスクを外すことに怯えたりする。美しさに価値があることはどうしようもないみたいで、そんな気持ちももしかしたら永遠になくならないのかもしれないけどさ、天然美人に価値があって化粧も整形もズルだみたいなのもう終わってるし終わりにしようとしてるからだんだん移り変わっていけたらいいと思う。)

自分を自分できちんと見つめて、自分らしくしてあげること。自己表現なんて言ったら大袈裟に聞こえるかもしれないけど、この抑圧されたりなんだりしてる世界の中でナチュラルに生きるのは結構大変なのだ。ぼうっとして流されてるばかりじゃ自分が自分じゃなくなっちゃう、私はそんな感じが結構するから、髪を染めたり服を買ったり本を読んだり文章を書いたりする。それはどれもすごくわざとらしいことで、いつも自意識過剰で、全然ナチュラルなんかじゃないかもしれないけどそれは、この世界で私が私でいられるために必要なことなんじゃないかな?ものすごく遠回りな「ありのまま」なんじゃないかな?

なんか難しくなってきたので一回深呼吸。別に個性なんてバリエーションでしかないしファッションもビューティーもそれ以外もビジネスだから欲望を喚起することから逃れられないしその中で簡単に見つかる程度の自己表現なんてまじで大したことでもなく自分らしさなんてどこにもないと言われてしまったらそこまでだしわかってる、けど自分で自分に納得して生きていかなきゃいけないからそれくらいの小さな自尊心、自意識、自己肯定その他もろもろ許してほしい。

本当はこれ26歳のお誕生日に書こうとしていた(休日出勤で疲れ果てすぎて無理だった)文章で、26歳って大人だし、こんなに生きるつもりではなかったけどとりあえず30歳を目指そうかなとは思っていてそのために考えていること。私は基本的に私らしいことが多くて、それは周りをたのしませたりもしていて、でも私でいることに疲れることもあってこの先が袋小路だったら怖いし、大人になってすべてに慣れていってふんぞりかえって私らしくい続けることで人を傷つけたり嫌な思いをさせたりすることがあるならどうしたらいいんだろうね。

赤リップ的なナチュラルの究極系はアイドルという仕事だと思っていて、だからアイドルが好きだ。ステージに立って歌って踊るなんて究極にわざとらしいのに、まるでそれが生まれついた仕事かのように笑う彼ら彼女ら。プロデュースしたりされたりしているのだから真実ありのままなんかではなく、自分だけの「赤リップ」を見つけたり見出されたりしてアイドルになって、それをまるっとみんなに見せて好かれたり、もしかしたら嫌われたりもする。アイドルというものに深くに触れると結局は人間を肯定することにつながるので、ありがたい。

SNSが好きで、写真を撮ったり撮られるのも比較的好きなほう。ファッションと同じで趣味としてのセルフプロデュースだからだと思う。誰かが見ているということも重要。他者に観測されることで自分が自分になっていく。私の生きた証なぞ誰も残してくれなくとも、自分でいいように残しておける。ちなみに友だちのSNSアカウントを見るのも、知らない人のSNSアカウントを見るのもとても楽しい。人が着ている服に興味があるのとこれもまた同じ。

もっと直接的な自己表現にもダンスや歌、絵や写真や映像までいろいろな作品の方法があるけど私は文章が好き。こうやって頭の中がぐるぐるしてるのを一本の線にして出力して、意味のなさそうなぐるぐるをちょっとは意味ありげなものに変えられる。いいことも悪いことも。特に小説のことを美しいと思っているから、自分の書いた小説があるという状態はかなりうれしい。活字が美しいものでよかったな。

そういえば隙があるとモテるとか隙がないからモテないとか言われたことあって嫌だった。演じている・頑張ってる・強い自分みたいなものがあったとして、それを本当の自分だと思うのか、本当の自分は他の場所にいると思うのかは人によるし、少なくとも私はいつも私らしい感じでお送りしてたから、不自然でもあくまでナチュラルだったから、あなたのあなたらしさは人間的魅力がないと否定されたようでつらかった。立ち振る舞いや性格は人に迷惑かけてないなら矯正するようなもんではないと思うし(私は可愛くないけど整形したくはないという気持ちもこれに近い)、服装だってそのために変えられる?モテるために普通っぽい服を着ることとかコンタクトレンズにすることとかは私にとって全然ナチュラルではなくて、例えば自分の性別に違和感を感じるとかそういうのに近いのかなとか思ってるけど、どうなんだろう。でも服装って人間の尊厳を左右したりもするからすごいね。ていうかコンタクトにしてまつ毛をあげて肌をきれいにして髪を伸ばして巻くなんて全然ひとつもナチュラルじゃないじゃないことが「普通」とされるモテ界って逆にすごすぎ。

頑固さとかこだわりとか、はたまた流されやすさとか適当さとか、そういうの全部合わさってその人自身になる。個性も多様性も別に大したものじゃないけど絶対に確実に存在するし尊くてすごく面白い。それぞれのナチュラル。んでまあ結局いろんな意味でナチュラルに生きて好かれたいけど天然美人だってモテモテガールだってどうせ苦労はする。自分が心地よくいられる居場所を見つけることくらいは自己責任で頑張らないといけなくて、ていうか大人だからそれを探す権利と自由があってうれしい。そんな中で真実自分らしく、「赤リップ」できらめいていられる時間が長いことはきっと良いことだよね。

あなたの「赤リップ」いいねって褒められたらありがとうってじんわり喜んでふんぞりかえらない。他人のナチュラルを決して踏みつけにしないように。あと同じ赤リップばかりに執着せず、自分らしさの袋はできるだけいっぱいの空気を孕んで広がるように。ピンクのリップでもきらめけるかもしれないし、リップしたくないときの自分を否定せずとも良いとか。袋がどんどん大きくなってぱっと手が離れる瞬間がきたとしてそれがもしかしたら最初に言った悟りの境地なのかも。うーんでもなんでもいいやってなったら逆に大変そうだしまだ悟らなくても良さそう。それから、人間同士それぞれのナチュラルさが無意識に傷つけ合いそうなときはできる範囲で調整して(公共の福祉!)、頑張ったり頑張らなかったり笑ったり泣いたりする、そういう人に私はなりたいってことで。

26歳も生きていこうと思います。よろしくお願いします。

私は私 だからなんなのってとこから壊してはじめるのがDream

AGE OF ZOC/METAMUSE

P.S.すべての個性は愛おしいという点から私はだいたいの人のことが好きですが、私に好感を持ってくれたり仲良くしてくれる奇特なみなさんのことはものすごく贔屓目に好きです。いつも居場所をありがとうございます。どんな距離感であっても互いに特別であり続けられたら嬉しいです。

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