見出し画像

『外伝』


闇の彼方から。

波の向こうから。

空に浮かぶ満月に照らされて、舟が一隻。

やさしい風に運ばれて、どこへ行くのか。


『外伝』


どれ程の時間が流れただろう。

揺られた舟はある場所へたどり着いた。

そこは小さな島のようだ。


闇の中、茂みの奥で何かが動いた。野うさぎと、女だ。島の住人である若い女。彼女は島に漂着した舟を見つけ、野うさぎにつられるようにして恐る恐る中を覗き込んだ。

そこには、見知らぬ男が一人。女は二言三言野うさぎと言葉を交わすと、舟と男を引き上げた。


女の家の中へ舞台は移る。布団の上で死んだように眠る男。幾日か時が経ち、ある朝にやっと目を覚ました。

男の眼前には、女が一人。不思議そうに、こちらを覗いている。

男は一瞬驚きたじろいだが、女の優しい眼差しにその緊張は解かれ、少しだけ心が和んだ。そして、気付いた。自分と、女との間の違い。少し赤い肌、見慣れぬ衣、そして、おでこから少し出た角。その女は驚くべきことに、人間ではなかったのだ。

鬼。

ただ、男の持つイメージの鬼とは違い、女は丁寧なやさしい口調で話をしてくれた。


この島は地図にない島。鬼達は人を嫌い、この島から一歩も外へ出てはいけない掟があるらしい。何百年も続くそのしきたりの中で生きてきた女にとって、男が初めて見る人間だった。

男が問う。「それでは、なぜ俺を助けてくれたのだ?人間は憎むべき存在なのでは?」

「そうかもしれません。ただ、見過ごすことが出来なかったのです。人間を嫌うと言ってもそれは受け継がれてきた伝統のようなもので、実際私達は人に会ったことさえないのですから」

「そうか。俺はやはり助けられたのだな」少し体勢をずらして男が続ける。

「礼を言う。ありがとう。…そういえば、舟は?」

「隠してあります。そうは言っても人間をかくまうというのはやはり許されぬことですので」

「そうだな。すまない。すぐに出ていく。邪魔をしたな」

男は立ち上がろうとしたが、瞬間走るのは激痛。すでに男の身体はボロボロであった。とても歩けるような状態ではない。

「いけません。今外へ出てもつかまるだけです。ここならば安全ですので、もうしばらくお休みになって下さい」

「いや…それは」

男はなんとか立ち上がろうとするが、身体が言うことをきかない。

「…本当にすまない」

「いいえ。実を言うと少し安心したんです。人間は恐ろしいものだと伝えられていましたから」

「…安心?」

「あなたはとてもそんな風には見えませんから」

女はやさしく微笑んだ。


人と鬼。どうやら二人はお互いに偏見を持っていたようだ。鬼といっても、角などは生えてこないものもいるらしい。肌の色も少し赤い程度。着ている衣は少し独特だが、よくよく見れば人とさほど変わらない。それに、鬼は動物に好かれる。元来、人よりも心やさしき生き物なのだ。

「…あの、これいかがですか?」

そう言いながら女が出す料理は旨いものばかりだった。話を聞くと、この島の野菜や果実は人間界のものと比べて遙かに大きく育つらしい。おかげでおいしいのだが食べきるのは大変だ。

一日、二日、一週間と一緒にいる時間が長くなるにつれ、だんだんと二人はお互いに惹かれあっていった。そして、つられるようにして、笑顔も増えていった。


お互いを知ることが喜びになった。お互いのやさしさであり得なかったはずのつながりができた。点と点は境界線を超えて結ばれて、やがて許されぬ愛が生まれた。

「いつまでも一緒にいられますように」

そんな願いを込めて、二人は庭先に男が大好きだという花の種を植えた。


しかし、二人の恋の終わりは突然だった。

とうとう男は村の衆たちに見つかってしまったのだ。男の追放。彼方へと流された舟が男を乗せて闇夜に消えていく。

手を振ることさえ許されなかった。人の一生は鬼よりもはかない。もう二度と会うことはない。

女は泣き続けた。何日も、何日も。涙は枯れることなく、やがて女は己の身を投げることまで考えた。

そんなときだった。


女は、あることに気付いた。

新しい命が自分の中に宿っていること。我が身の中に、愛が創った小さな小さな宝物を見つけた。同じ頃、庭先には、綺麗な花が咲いた。

離したくはなかった。絶対に。離したくはなかった。一緒にいたかった。いつか、あの人だって一緒に、三人でもう一度笑いあいたかった。叶わぬ夢を、何度も何度も星に祈った。

しかし、いつまでも子どもと一緒にいるわけにはいかなかった。ここにいれば殺される。人と鬼の子ども。厳しい掟が支配するここで、それはとても許されることではなかったのだ。

花が枯れた。子どもとの別れ。

涙も枯れた。はかなき恋の調べ。

泣き声だけが響く。鬼達は女を罰することを決めた。最後の別れ。

女は最後の力を振り絞って、仲の良い鳥たちにまだ幼いその子を人間界へ運んでもらうように頼んだ。食べ物に困らないようにと、大きな大きな果物に包んで。あの人が好きだった名も知らぬ果実。いつかあの人へ届くようにと、最大限の愛といっぱいの祈りを込めて。


いつかもう一度会いたかった。

頭を撫でてやりたかった。

たくさんのことを教えてあげたかった。

もっともっと抱きしめたかった。

ずっと笑っていたかった。

ただ、あなたといつまでも一緒にいたかった。


さようなら。


どんぶらこ、どんぶらこ。

子どもを乗せて川を行く果実。

そして、それはある時おばあさんに拾われ、その子どもは、いずれもう一度その島に立つことになる。


悲しみと切ない恋の果て。

数奇な運命の下、犬と猿とキジを連れて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?