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【対談#2】後半!いよいよ核心へ。藤田直哉×杉田俊介対談『君たちはどう生きるか』(2023年7月14日公開、宮崎駿監督)を、僕たちはどう観たのか?――ポスト宮崎駿論を超えて

【※ネタバレ注意!】藤田直哉×杉田俊介対談の後編です。
前半【対談#1】藤田直哉×杉田俊介対談『君たちはどう生きるか』(2023年7月14日公開、宮崎駿監督)を、僕たちはどう観たのか?――ポスト宮崎駿論を超えて|作品社 (note.com)


 前半は、『君たちはどう生きるか』とこれまでのジブリ作品を中心に、お話をしていただきました。
 本日公開の後半は、いよいよ「ポスト」宮崎駿について語ります。【編集部】

◆宮崎駿の弟子が作った『シン・仮面ライダー』


――宮崎駿の弟子である庵野秀明の『シン・仮面ライダー』についてはいかがですか?
 
杉田 ちなみに、『君たちは~』は、大叔父の仕事を眞人が継承「しない」話なんですよね。他方で『シン・仮面ライダー』のテーマは継承なんです。洗脳と継承はどう違うか。それが重要な主題です。その違いも気になります。

「大叔父」。スタジオジブリHPより。


 これは庵野ファンを公言する藤田さんに聞きたいんですが、僕は『シン・仮面ライダー』を初日に最速で映画館で観たんですけど、正直その時は全然面白さがわからなかったんです。けれども、今日の対談の数日前に『シン・仮面ライダー』がAmazonPrimeに入ったので、もう一度観てみたら、わりと面白かった。映画館で観た時はよくわかっていなかったところが色々とあったな、と思った。とはいえ、僕は庵野秀明の作品にはわからないところもいろいろあるので、まずは公開時に絶賛されていた藤田さんに、『シン・仮面ライダー』の面白さの理由を聞いてみたいなと思いました。

 
藤田 僕も昨日観返したんですが、やっぱり相変わらず面白いと思いました。何故世間ではこんなに評判が悪いのか分からないくらいです(笑)。自分がいいと思った理由を内省するに、まずは単純に構図のキレがいいところかなと。キューブリックなどと同じで、日本映画らしくないようなシンメトリーの徹底とか、幾何学的にキマった絵の緊張感が最初から最後まで続く日本映画って、あまり多くないんですよ。海外だと、リドリー・スコットとか、ドゥニ・ヴィルヌーヴとか、結構いるんですが、庵野秀明は珍しく日本でそれを追求している監督なので、まずはその達成に感動したってところがあります。『シン・ウルトラマン』には怒りを覚えたので、その差を分析するに、多分そういうことかなって。
 僕は庵野秀明が「シン」シリーズでやろうとしたことって結構好きなんです。それは、特撮やアニメ文化が本来持っていた社会や現実との繋がりを回復させる試みだと言っていいと思います。個人的には、そこに一番胸を打たれました。
 庵野秀明も作品を通じて「どう生きるか」のメッセージを発しているけれども、その意義は宮崎駿との対比の中で見えてきます。宮崎駿は、「昔」とか「自然」は良かった、バーチャルなもの、大衆消費社会以降は駄目という人間ですよね。でも庵野秀明は、自分はバーチャル世代で、テレビ等も含めて非現実的、間接的な情報を通じて世界や社会を知っていった世代としてアイデンティファイしている。その自分を引き受けた上で、その問題性を克服し、宮﨑の批判にどう応えるかを模索しているようにも見えるんですよ。多分それが「シン」シリーズの主題系のひとつなんですね。
 
杉田 なるほどね。
 
藤田 『シン・ゴジラ』(2016年公開)、『シン・ウルトラマン』(2022年公開)、『シン・仮面ライダー』においては、元のオリジナルなシリーズが持っていた魂をコピーしつつ現代的に蘇らせて、さらにそこに付け加えてオリジナルにする、ということをやっている。作り方と内容のメッセージが一致していて、そういう「形式と内容の一致」みたいなところも、やはり「美」の源泉ですから、惚れ惚れとしてしまうんですよね。

https://youtu.be/2XK23KGM-eA?si=M1z1a4kUCokpEhaT

 自分は直接体験世代ではなく、バーチャルで世界を知ったコピー世代なんだけど、その問題点を克服し、どう世界に接触し、この世界に貢献し、そのような自分を肯定するか、そして次世代に何を引き継ぐか、というのが「シン」シリーズの潜在的なテーマです。
 宮崎駿の「バーチャルなものは駄目で、自然と直接的に触れる生命の力を取り戻そう」という思想に対する異論として、色々なアニメーション作家がマッピング出来ます。押井守は、宮崎駿に対談で反論して、バーチャル世代もテクノロジーも受け容れるしかないという立場を決めていて、典型が『攻殻機動隊』(『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』1995年公開)ですね。新海誠は、宮崎駿の民族論に反論し、ネット世代の繋がり方やアイデンティを肯定しつつ、昔のような共同体は無理なので、土着的なアニミズムとネット時代を接続することで現代を肯定する戦略に出ていますね。細田守は、ネット社会と濃密な農村的・家族親族的な共同体を接続するような考えを提案しようとしています。『未来のミライ』(2018年公開)では、家族的な愛着や情緒を失ってフィクションに拠り所を求める現代的な少年を描いていて、それがネガとポジの関係になり、彼の問題意識を示しています。庵野、新海、細田は宮崎駿のある部分を継承していますが、ある部分では象徴的な「父殺し」をしていて、継承していない、むしろ反論しているんですね。
 では、「シン」シリーズ、『シン・仮面ライダー』において庵野が何を重視しているのかというと、当初のオリジナル作品が持っていた社会的使命です。
 今、特撮は消費物やおもちゃとして考えられがちだけれど、実は背景に戦争などの社会の問題が込められていたのがオリジナルの『ウルトラマン』(1966-67年放送)や、若き庵野秀明が同名の作品を作った『帰ってきたウルトラマン』(1971-1972年放送)だったりするわけです。例えば「ウルトラ」シリーズの生みの親である金城哲夫は沖縄出身で、差別問題など、沖縄と本土との関係性を作品に仕込んでいる。有名な上原正三脚本「怪獣使いと少年」(『帰ってきたウルトラマン』第33話)なんて、ほぼ在日差別の話ですよ。そういう社会的使命を意識したエンターテインメントの側面を復活させて、現実の社会との接続を意図する、それが「シン」シリーズでやろうとしたことです。さらに宮崎駿の弟子として、これから起こる危機への備えをエンターテインメントで喚起し、議論を起こして世の中を変えようとしている。
 では、それは、何か。『シン・ゴジラ』では震災、原発事故と、日本の政治のあり方ですよね。『シン・ウルトラマン』では外交と国際政治、諜報とか認知戦。『シン・仮面ライダー』の場合は、AI時代においてどの「社会システム」にするべきかの覇権争いです。この中で『シン・ゴジラ』だけが別格に評価が高くて、実際に面白いんですが、震災が国民的題材で、わりと身体的に直接的で分かりやすく、劇場という装置の相性が良いからでしょう。『シン・仮面ライダー』の場合、敵として登場したコウモリオーグやハチオーグなどのそれぞれに代表させてAI時代の社会システムの覇権争いを描こうとしているのが、身体的なリアリティを喚起するものではないので、多分分かりにくいんでしょう。これから必要になることで、考えなければいけないことを、身体的・直感的に分かりやすく翻訳するのも、映画の大事な役割なので、重要なチャレンジだと評価します。
 今回の主人公はコミュ障で無職、そして絶望している人間。庵野秀明は「オタクの実存」「生き方」を潜在的な主題にしてきた作家ですが、『シン・エヴァ』が批判されたのは、主人公が結末でリア充みたいになって、現実に戻ろう! という話になったことでした。しかし、現実にいる、人生を「詰んで」しまった人たちが、じゃあ「俺はどうしたらいいんだ」と絶望してしまったんですよね。実際、『シン・エヴァ』を見て絶望し、数日後に、恋愛が発覚した「推し」のアイドルのライブ会場に火を放って大量殺人をしようとして捕まった犯人がおり、彼がNHKのインタビューでそのことを語っていました。『シン・仮面ライダー』は、そこで取り残した者たちをもう一回扱い直そうとしている。今回の主人公はコミュ障、無職、絶望した人間。ヒロインもクールですがちょっと「アスペルガー」的なコンピュータオタク。敵のオーグたちも、様々に絶望している人たちですね。そして、彼らの戦いは、人類の未来をどうするべきかの思想的対立の寓話になっているんですね。
 コウモリオーグの場合は、疫病は善いもので、感染=選ばれた人以外は淘汰してしまえという思想。新自由主義社会の新興富裕層に多そうな考えですね。ハチオーグは、ヤクザやホストの世界をモデルにし、効率的な支配と服従を重視し人々を統制しようとします。チョウオーグは、魂を別世界=バーチャルなハビタット世界というものに送って、本心だけで嘘のない世界でみんなを救済して幸せにしようとする。彼は犯罪によって母を失っていて、肉体のない世界にしてしまえば暴力がなくなるから、そうしようとしているわけですね。『ONE PIECE』のウタや、『エヴァ』シリーズのゲンドウと同じで、肉体を消して情報と観念だけの世界に行こうとするタイプの人物です。それに対して、チョウオーグの妹であるヒロインは――コンピュータ世界に生きているという点で、兄妹である二人の気質は似ているのですが――自分たちは世界を知らなかったし、外にはいろいろな世界があるから大事にしなければいけないのだ、と、その思想を否定します。実質的に、作品を主導しているのは彼女ですね。
 ここにある葛藤というのは、他人を信じられるか否か、信頼できるか否か、絶望の乗り越え方の問題なんです。人間が信じられないから支配してしまえとか、自分と他人の違いを無くしてしまえとか、人間同士が争って憎しみ合うのなら肉体を無くしてしまった方がいいという考えに対して、主人公たちは、しかしそれでも人間を信じるんだ、人間を愛するんだということを言う。ある社会システムを望む争いの、その背景にある心情のレベルからアプローチしている、と言えると思います。
 マンガ版『ナウシカ』の後半の問題をそのまま継いでますよね。人間をありのままに信頼できるのか、肯定できるのか。そのような問いを引き受けた上で、現実に存在している、イーロン・マスク的な人たちによって行われている社会改造・社会設計と対決する物語として『シン・仮面ライダー』は読むべきだと思います。
 思想的な詰めはちょっと不徹底な部分もあると思うんですが、集団とか群れについての科学的な研究の成果も参照しているらしいので、人類を集団としてどう「管理」するかという主題系があるのは間違いないと思います。それはこの先本当に私たちの生活を揺るがすので、今考えて議論することが本当に必要になることで、宮崎駿は手を付けていない領域です。戦争と災害の時代を「どう生きるか」は問いかける、でもAIとかテクノロジーが変貌していく時代を「どう生きるか」は問いかけられない。そこを庵野秀明はちゃんとやろうとしている。だから僕は『シン・仮面ライダー』は立派な作品だなと思ったんです。『シン・エヴァ』では、「第三村」を描き、宮崎駿に譲歩するというか、自然に戻った方がいいかも、村的な共同体の中で生きるのも大事かも、と描きつつ、しかし、自分はそこでは生きられない、と主人公に言わせています。
 肉体を捨てて観念的世界に行くこと、つまりそれはオタク文化やネット文化のメタファーだと思いますが、そこに夢や革命を感じていたときもあった――ポストモダン的な全てが記号になるという楽観の延長――が、それによる人類改革の夢を見ていたチョウオーグやゲンドウは、「すまなかったな」と言うわけですよね。全てをバーチャルにしようとすることの暴力性は確かにあった。置き去りにしてしまう人たちの苦しみが、愛着の破壊などがあった。それを反省した上で、しかし宮崎駿では足りない、AIやテクノロジーによって管理される社会の中で具体的にどう生きるか一歩踏み出そうとしている。MITの教授の書いた本とか読むと、人間や生命が身体をなくして情報になるとか、進化するとか、普通に本気で書いてあるわけですから、これはかなり本気で考えるべき思想闘争なんですよ。『シン・仮面ライダー』は「シン」シリーズの中では、一番先に進んでいて、現代的な課題をエンターテインメント化する工夫に満ちた野心作だと思いました。


◆洗脳と孤独、カルト空間


杉田 僕はモダニズム的なスタイリッシュな映像美とかにそれほどグッとこない人間なので、単純にそういう問題もあるのかな、と思いました。
 AmazonPrimeで観直したら、『シン・仮面ライダー』は、これまでの「庵野的なもの」を禁じ手にして、それでも何ができるのか――そういう個人的な実験であるようにも見えました。たとえば、父殺しや母殺しをもう描いてはいないですよね。そしてルリ子はもはや「母」でもなく「少女」でもない。これはたぶん大きい。
 最初に言ったように、映画館で最初に観た時はびっくりするほど面白さがわからなくて。プラーナ(魂)のない虚無のように感じた。冒頭のクモオーグ戦がピークで、コウモリ戦で「ん?」となって、サソリオーグでちょっとテンション上がって、ハチ戦で「うーん、まあ庵野さんだし……」となり、その後はどんどん「うーん…うーん…」とテンション下がっていった。終盤は『エヴァ』と同じじゃん、みたいな。一文字隼人の柄本さんは基本的によかったですけれども。
 気になったのは、本郷猛が毒気が抜けて悟りきった素直なシンジ君のようなキャラになっていたことでした。どこかカルト宗教の優等生のようだった。そして結局、ルリ子を演じた浜辺美波という美少女の魂が、本郷猛も、一文字隼人も、兄の魂も、みんなまとめて浄化して逆洗脳する。そうした物語に思えた。それを象徴するのがあの赤いスカーフでしょう。そして映画内のルリ子のキャラクターとしてのペラペラさを、浜辺美波の顔や姿のよさで誤魔化しているように見えた。
 ショッカーは洗脳組織ですよね。怪人たちは各々に固有の方法で人々を幸福にしようとする。つまり多元主義的な洗脳組織です。それに対してルリ子は、脱退二世信者のようなポジションでしょう。ルリ子は教祖化した兄イチローをふくめ、男たちの記憶と脳神経をハックして、脱洗脳させていく。マスクの中に美少女レタームービー(?)が仕込まれていて、ルリ子の死後に本郷がそれを観て涙を流す、という危ういシーンもありました。しかしルリ子がやったことは、ハチオーグの強制的な奴隷化や、コウモリオーグのウィルス感染の戦略などと何が違うのか。
 それは脱洗脳なのか、それとも逆洗脳なのか。そこで「パリハライズ」という謎の造語が使われるわけです。この奇妙な言葉が事態を曖昧にしているとも言える。大筋としては、かつて理不尽な犯罪事件で母親を失った兄のイチロー(チョウオーグ)が、「ハビタット計画」によって人類全体を洗脳しようとし、ルリ子がそれに対抗する。結果としてルリ子の魂が本郷も一文字もイチローも、みんなまとめて浄化し、思想を上書きする。最初はそれが「母=少女」ルリ子による男たちへの逆洗脳が勝利する物語であり、それ自体が「母=少女のユートピア」に見えた。これは再び戦後オタクの「成熟と喪失」問題や人類補完計画の夢(母性のディストピア)に逆行していないか……そういう風に感じてもやっとした。
 でも今回観直したら、映画館では僕の脳の情報処理が追い付いていなかった部分も大きかった、と思った。『シン・仮面ライダー』と『エヴァンゲリオン』の重要な違いはやはり、父殺しの物語、母殺しの物語を脱構築していることではないか。緑川家の三人にはまだ微妙に家族物語の呪縛が残っています。けれども、母性喪失を埋めようとするのは教祖化したイチローの方であり、妹のルリ子はその計画を棄却しています。またルリ子は父である緑川博士のことも基本的には嫌いで、冷静な距離がある。多少の恩を感じている、みたいに言ってはいましたが。
 本郷猛の立ち位置はやや微妙でしょうか。血縁関係はないけれど、緑川博士が改造手術をしたこともあり、ポジション的に何となく家族関係に組み込まれている。本郷猛を主人公として見ると『エヴァ』的主題に若干逆行する。とはいえ本郷猛はあくまでも死んだ警察官の父親やルリ子の意志を継承するだけで、シンジ君のような象徴的親殺しを欲望してはいません。
 それらに対して、一文字隼人は全く、家族的な呪縛の中にいませんね。一文字を主役として観ていくと、『シン・仮面ライダー』は色々と納得できる気がしました。全体としては本郷猛やルリ子も含めて緑川家の(疑似的な)家族の物語であるが、一文字はその外部にいるんだと。さっき言ったように、この作品には他者の奴隷化や洗脳の主題が一貫してあります。正確に言えば、洗脳vs継承ですね。では、たんなる洗脳ではない形での他者の心の継承は可能か。一文字にとっての自由と正義は、そうした非洗脳的継承の可能性に関わる。それは戦後サブカルチャーの歴史それ自体を継承して更新する、という最近の庵野さんの主題そのものとも関わるのでしょう。
 
藤田 洗脳か継承かという問題は、AIに代表されるような人間を管理するシステムの問題と不可分なわけですよね、つまり自由意志の問題なわけですが。仮面ライダー二号が重要なのは洗脳を解くシーンですよね。主人公とヒロインは組織から足抜けした反逆者で、カルトとか過激派から抜けるようなものです。一文字もそうで、彼が洗脳を解かれるシーンが面白くて、洗脳とは、悲しい記憶を多幸感で上書きしたものだと説明されます。それが解けるときに、現実や、自分自身に直面しなくてはいけなくなり、号泣するわけですよね。そして、彼が最終的な継承者になる。ネットの過激派や陰謀論を信じる人などもそうですが、オンラインで人を洗脳して組織化する技法が現実で展開していますよね。自己肯定感や承認を与え、「悪いのはあいつらだ」と単純化して名指し、それを倒すために戦う聖戦の戦士であるというアイデンティティに酔わせるという、単純極まりないチープなやり方ですが、それが現実に有効になっている。現実離れした幻想の多幸感の麻薬で鉄砲玉にされているだけなのに。それから醒めさせて、そして彼を継承者にするという「反省と贖罪」の物語であるのも面白いですよね。
 洗脳を自覚し、現実や自己に直面すると、弱さや苦しさが蘇って来るわけですが、しかし自由になるわけです。彼が協力するのは自由意志によってである、そこは大事なところだと思います。集団の中の一員にならないで、一匹狼が好きな自由な個人として好きに生きるんだけど、自由な個人として、「国家」にも協力することを選択する。その描き方の丁寧さは、これだけ洗脳的なことが起きて、ハチオーグにコントロールされる人々みたいな状態に多くの人がなっている時代に対する、明らかなメッセージだと思います。
 
杉田 一文字も孤独が好きだと言いつつ、わりと寂しがり屋で、仲間が死ぬと「また一人か」と言ったり、孤独を抱えた設定ですよね。しかし一文字だけ、過去に何があったのか、映画内では明示されない。
 本郷猛の父親は警察官で、人質を助けようとして犯人に刺されて殉職した。つまり本郷は犯罪遺族です。緑川家も母親が犯罪被害者だった。庵野さんはなぜか、「犯罪被害」というものをこの世の不幸の極限として提示している。この感覚には庵野さんの重要な何かがあるのでしょう。それに対し、一文字はよくわからない。しかしその内面的・成育的な「よくわからなさ」が重要なのかもしれない。

◆『エヴァ』的テーマ――AI時代において我々はどっちを選ぶのか?


藤田 仲間を失った時も「ま、いっか」みたいな切り替えの早さがありますからね(笑)。でも、「心スッキリだ」みたいな発言に象徴される「悩まなさ」は、明らかに意図的な造型でしょうね。犯罪被害者というだけでなく、「親を奪われた」ことが重要な点なのかもしれませんね。

杉田 本郷猛はマスクを通して遺言的なレタームービーを見せられ、チョウオーグはいかにもスピリチュアルな光り輝く空間で妹と対話して和解します。どちらも宗教的洗脳をイメージさせます。
 対照的に、一文字の脳内で何が起こったのかは描かれない。ルリ子に脳に干渉されて、大粒の涙を流して、洗脳が解けた描写はあるけど、彼の過去に何があったのかは不明のままです。しかし少なくとも一文字は、庵野的な家族物語の内部にいない。つまり、母が死んで、それを甦らせようとして人類補完計画が発動して、しかしそれを乗り越えようとする、という庵野的な家族物語の外側にいる、とは言える。
 ルリ子もよく見れば「母性」を背負っていません。かといって理想化された「少女」でもない。つまり、ユイでもレイでもない。本郷はつねに「ルリ子さん」と呼びます。一文字は「お嬢さん」という言い方をして、これも対等な大人の女性という感じがする。つまり『シン・仮面ライダー』は、「母」でも「少女」でもない自立した大人の女性に向き合っていく。そうした姿勢は感じる。初見時はルリ子が『エヴァ』っぽいキャラに見えたけど、そうではなかったような気がする。ルリ子は父の緑川博士が作り出したクローン人間だけど、母のクローンには見えません。
 
藤田 人工子宮から生まれたと言っていたので母親がいないんじゃないですか。甘えたことがない、と言ってますからね。失われた母に囚われている兄と、最初から母やその暖かさを知らない妹の対決という構造ですね。代わりに、「甘える」、つまり、愛着や暖かい心の関係を回復するのは、本郷という「男性」によってなんですよね。「母」的なものは、別に生物学的な男性が担っても大丈夫、ということでしょうかね。
 
杉田 父親の遺伝子を用いて人工子宮で培養されたなら、父とはDNAの繋がりがあるけれど、母的なものは継承していないんですかね。そもそも写真の中の母親(市川実日子)とも全然似ていないですね。
 
藤田 ルリ子は、どちらかというと「男性的」な性格ですよね。意志的で、理知的で、パソコンに強くて。そういう逆転は結構多いですよね。家族も一つの群れであり、家族の価値観を受け継がされることも、呪いをかけられる、洗脳と似ている部分があるということなんでしょうね。毒親問題なんかはそうでしょうけど。一文字は、そのような家族の呪いに過剰に固執してはいないようですね。
 
杉田 でも自立した個人は絶対に他者から洗脳なんかされない、ということでもないし、継承が絶対的な善で洗脳が絶対的な悪だと割り切ってもいない。そこがいいな、と思ったんです。「幸」と「辛」が紙一重であるように、結構ぎりぎりなわけですよ。
 陰謀論的でポストトゥルースな価値観の中で葛藤し続ける人間にとっては、複雑な形で他者に洗脳されたり他者を洗脳したりしながら、各自の自由を模索して、共有可能な正義を求めていくしかない。そういうシビアで境界的な危険性を引き受けた上で、それでもやはり洗脳ではない何かを他者から継承しようとする。それが庵野さんの基本姿勢なのでしょう。
 洗脳のただの否定ではなくて、カント的な「批判」ですよね。いわば、「洗脳論的理性批判」のようなもの。
 
藤田 洗脳と継承との「違い」を観客に学習させるために、両者のコミュニケーションの仕方の差を結構丁寧に描いていたと思うんですよ。例えば、ハチオーグやチョウオーグの言う洗脳と、継承は同じように見えますか?
 
杉田 そこは微妙でしょうね。たとえばハチオーグは完全に他者を奴隷化して、功利主義的な奴隷のシステム化を目指す。映画製作のドキュメンタリーなどをみると、庵野さんは依然として、ハチオーグ的な「正しい奴隷制」がいちばんいい、と考えている節もある。そういう欲望が自分の中にあることの危うさを自覚しているからこそ、現場での他者の偶然性を期待したりして、ぎりぎりのところでそれに抵抗しているようにも見える。
 他方で、チョウオーグことイチローは、完全に現世に絶望して、みんなであの世のような場所へ行くしかない、と決断した。そこでは人間の個性は消滅して、個人と個人の対立や敵対や悲しみも消えて、匿名的な集合性の中に全員が溶解していくはずだと。それはある意味で洗脳の究極ですよね。他者がいなくなり、世界全体が「自己」だけになるのだから。庵野さんの中にはそういう欲望があり続けてきたし、基本的には今もそうなんだとは思う。
 しかしたとえば人間は汚いし、体臭もあるわけですよ。本郷がルリ子に「臭い」と言われますよね。これは庵野作品に強迫反復的に出てくるシーンです。長期間着替えないので臭くなって、それを女性から嫌悪されたり、たしなめられたりする。逆に言えば、人間は身体があるし、放っておけばだんだん臭くなる生き物でしょう。どんなにコピーしても、人工化しても、そうなり切らない部分が必ず残る。これは素朴なことだけれど、案外大事なことですよね。つまり、どんなに他者を洗脳しようとしても、洗脳し切れない部分、コピーし切れない部分が残るはずです。継承とは、他者性の異物感や臭いを消さないことだと思うんですよ。
 ショッカーの下級構成員たちは「プラーナを応用した洗脳技術」で使役されています。しかし、正義もまたイデオロギーの一種であるならば、洗脳に二元論的な善悪や真偽の違いはあるのか。継承と洗脳は何が違うのか。そういう問いを『シン・仮面ライダー』の「洗脳論的理性批判」と言いました。家族的な抑圧と象徴的親殺しの悪循環、あるいは洗脳/逆洗脳の悪循環から脱出して自由になっていくこと、それ自体が一文字にとっての他者の「継承」の意味だったと思うんです。他者との繋がりを持たず、好きに生きることが自由なのではない。他者の心を継承すること、洗脳ではない形で自分の中に他者の思いを異物的に宿し直すこと、それが魂の自由なのかもしれないですね。
 父殺し、母殺しという主題では、もはや現代的な物語をうまく駆動できない。それに対して陰謀論やポストトゥルースの時代においては洗脳/逆洗脳は(特殊な家族の問題にとどまらず)生々しくリアルなものであり、あらゆる正義や自由もまた何らかの洗脳や陰謀の一部かもしれないけれど、そのシビアさを引き受けた上で、他者の思いや心を継承していこう、晴れやかであろう、という感じでしょうか。それは確かに、さっき藤田さんが言った意味とは少し違うけど、宮崎駿の中にはない庵野さんに固有の「問い」なのでしょう。
 
藤田 現実世界に対応させて考えれば、AIが個人の情報を集めて全体を洗脳的に支配するシステムは、中国型やロシア型の未来としてあり得るわけです。現にシステムごと、色々な国に売り出して導入されています。その世界は、「表現の自由」や「報道の自由」などが制限され、たとえばロシア国内ではウクライナの戦争を正当化する報道ばかりを目にして「洗脳」されるわけですよね。それと、様々な表現の自由があり、色々な公平な情報に接して人々が自分で判断する社会とは、重なる部分もあるけど、やっぱり理念というかシステムの思想は違う気がします。
 
杉田 続編の話もあるんでしたっけ。今作では完全に未消化で終わったAIキャラクターの話は、続編で描かれるのかな。
 
藤田 AIが人類を観察しているという設定でしたよね。現実でも、AIが我々のデータを食いまくって学習していますからね。続編の構想はあると庵野監督は言っていましたね。
 
杉田 やっぱりルリ子の造形がちょっと弱いかなと思いました。どこか『エヴァ』的なキャラクターの反映として解読されてしまう、そういう解読を観客に誘発する、という側面を残している。たとえばイチローのハビタット計画を拒絶するルリ子の原理が、よく考えるとよくわからないんですよ。「父親が豊かな世界を見せてくれたから」云々と言ってたけど、説得力が弱い感じがする。そもそも、ハビタット計画を最初に思いついたのはイチローではなくルリ子なんですよね。
 その辺が曖昧でもやもやするんだけど、浜辺美波の顔や姿の見た目の良さで押し切られてしまう。論理的な説得力を美的な感情が補完してしまう。しかしそうやって受け止めると、ルリ子の行いは強制奴隷化と大差なく、いわば母(ユイ)なき世界における娘(レイ)の増殖と感染のようにも見えてしまう。本郷猛は死んだ父の優しさを継承し、そこに強さを補完するけど、それも結局美少女パワーに賦活されたものだった……とか。やっぱり、微妙な感じがしますね。
 
藤田 だから、彼女の贖罪の物語なんですよ。かつての自分が立てた計画が、悪い方向に向かっていくのを止める、という。『シン・エヴァンゲリオン論』(河出新書、2021年)でも書きましたが、それが後期庵野秀明のテーマなんですよね。抽象的なデータの世界に行きたいという欲望が人類の中に今増えてきているけれど、そっちへ行くと駄目で、肉体やこの世界の広さ豊かさに目を開かなくてはならないというのは、『エヴァ』新劇場版以降ずっと彼が描いてきたことです。『エヴァ』が社会に与えた影響――サブカルチャーの蔓延、オタク文化や感性の主流化――への贖罪という風に僕は理解しています。

 それはAI時代において我々が、どのような道を選ぶことになるかという大事なことに関わると思うんです。肉体やこの現実世界、集団や共同体や伝統を大事にし続けて、AI化や情報化を忌避していくのか、それとも第四次産業革命だ、バスに乗り遅れるな! と乗っかっていくのか。前者では、日本が経済的・科学技術的に、今よりもひどい衰退の道を辿る可能性があります。後者では、格差はより拡大し、様々な社会や個人のアイデンティや肉体の変動、軋み、苦しみが生じるだろうと予測されています。では、他の道はないのか、何を選ぶのか、とても大事なテーマだと思われるのですが、世の中であまり議論されていないのは気になりますね。
 
杉田 生身の肉体を超えた人工知能的なスーパーヒューマンに解脱したいという欲望と、それではダメだという感覚と、その両者の間で引き裂かれているのが庵野さんで、それが『シン・仮面ライダー』で全面化した、という感じですかね。
 
藤田 庵野秀明の回答は、バランスの良い「折衷」なんだと思います。准監督の尾上克郎さんたちと、新しいテクノロジーや表現方法に取り組んで成功させてきたという「作り方」が、それへの説得力を増しています。今回は実写で、結構物理的なものを強調する撮り方をしていて、しかしCGもたくさん使っている。それも、CGっぽいと多くの人が思うところではなくて――そこも、敢えてマンガ的にするなど、違和感のある使い方を敢えてして――代わりに、実写だと皆が感じる風景とかの微調整などにむしろ多大な時間と労力をかけています。そういう風に、新しいことにチャレンジして創造的に結果を出していくしかない、というのが、メッセージであって、この作品のクオリティこそが説得力になる、という作りなんだと思います。
 この立場は、マンガ版『ナウシカ』で、テクノロジーを破壊し、(映画版で庵野秀明が原画を手掛けた)人工生命体である巨神兵を死なせたことへの、アンチテーゼになっていると思うんですよ。むしろ、テクノロジーと人工知能と共に生きようとする覚悟を、苦労しながら体現しているわけですから。

◆匿名であること。直接関係ない人たちの魂をどうやって継承していくのか?


杉田 繰り返しになりますが、僕は映画館で観ただけでは『シン・仮面ライダー』の細かい部分が(それらの細部こそが重要であるのに)あまり理解できていませんでした。登場人物もそこそこ多いし、難解なセリフや特殊用語が多用されます。その理解できない部分を、何となく、『エヴァ』的なフォーマットによって補完し、埋めてしまっていた。あのキャラがゲンドウであのキャラはレイで……みたいな。配信では字幕が入るし、映像を止めたり戻したりできるので、だいぶ印象が変わりました。
 たとえば最後に二人の政府の男――竹野内豊と斎藤工が名前を明かすところがわりと重要なんだな、と気付きました。誰でもなく、誰でもよかった匿名の二人の人間が、最後に自分たちの固有名を伝える。
 
藤田 匿名批判でしょうね。
 
杉田 すでに話に出ていますが、『シン・仮面ライダー』には、魂のないコピーの群れ、というモチーフが頻出しますね。クモ、自動人形、ヴィルース、働きバチ的な奴隷、大量発生型の群生相ライダー……。とすれば、AI的な人工性、功利主義的に交換可能な人格性、魂を持たない匿名的なコピーたち――そうした匿名的集合の中からぼんやりと固有の魂や名前が浮かびあがってくること、それは『シン・仮面ライダー』の世界観そのものを暗示しているのかもしれません。そしてそのために必要なのが、やはり、単なる他者の思想のコピー=洗脳ではなく、他者の思いの継承である、ということなのでしょう。
 あるいは、LGBT的な主題はどうでしょうか。ルリ子とヒロミ(ハチオーグ)の関係にはレズビアン的なもの、あるいはシスターフッド的なものの気配があった。またK.K(カマキリ・カメレオン)オーグには、クモオーグ「先輩」への激重の感情が見られた。同性愛的な感情が暗示されていましたね。
 ちなみにマンガ版の『真の安らぎはこの世になく -シン・仮面ライダー SHOCKER SIDE-』の一巻を読んでみたら、クモオーグは同性愛的なキャラクターの設定でした。彼が闇落ちしたのも、子どものように純真な心をもった親友の男の子が殺されてしまった、ということがあったらしい。それで絶望して、自分の顔を薬品で焼いて、ずっとマスクをかぶっている。マンガ版の内容も、庵野さんとの話し合いで決められたとのことです。
 
藤田 本郷とルリ子の関係は、恋愛ではなく信頼だとわざわざ言葉で説明されていますから、家族なども含むような愛情の問題ではなく、信頼の関係性が重要視されているのではないでしょうかね。敵側のオーグは、みんな愛憎でドロドロしちゃっていますが。LGBTの話で言えば、ルリ子は、割とアセクシャル的な傾向があるかと思います。ただ、これはどちらかと言えば、身体感覚的なリアリティに乏しく、言語や情報に相性がいい彼女の「特性」――その特性とLGBTには相関があるという研究があるのですが――から派生する問題だと思いますね。その上で、割とドライな「信頼」をこそ重視しようというのが本作のメッセージではないでしょうか。ヴォネガットは「愛より親切を」と言いましたが、それをもじれば、「愛より信頼を」が本作のメッセージなんでしょうね。
 
杉田 そうですね。ルリ子とヒロミにしろ、恋愛とも友情ともつかない曖昧な関係かもしれない。恋愛物語を排することは、『シン・ゴジラ』や『シン・仮面ライダー』ではかなり意識的に試みられています。
 『シン・仮面ライダー』の続編の話はその後、どうなったんですかね。
 
藤田 売れ行き次第、というところがあると思うので……(笑)。観たいですけどね。
 
――最後に新しいオーグが出現したところで終わってますよね。一文字の設定はカメラマンでしたっけ?
 
藤田 たしかフリーのジャーナリストですね。だから一匹狼だし、組織と一体化したくないし、政府に対して批判的な立場をとって距離を置きたい志向を持っているんだけど、彼が自分の意志で判断して協力するってあの距離感がいいですよね。

◆「ポスト」宮崎駿?


――それでは、「ポスト」宮崎駿の話を。
 
藤田 ダイレクトな継承者としては、新海誠と庵野秀明と細田守だと思います。でも、アニメーションの運動性で言えば、湯浅政明監督も候補ですよね、『夜明け告げるルーのうた』(2017年公開)なんて、テクノロジー(コンピュータを使った動画の技術)による『ポニョ』への応答のようでもありますし。

 主題面、時代の危機をエンターテインメントにして伝えて、どう生きるかを教えようとする使命を担ったという点では、前者の三人の継承度合いは強いですよね。そして三人とも、新しいテクノロジーや環境に生きる上で、宮崎駿の「昔は良かった」では足りないから自分が描く、という姿勢を持っていて、そこが素晴らしいと思うんですよね。科学も、学術も、美術史も、受け継ぎながら、何か先人の足りないところを見つけて、批判し、自分なりの新しい何かを作っていくものであって、それが健全なあり方だと僕は思います。
 継承、と言えば、「ポスト宮崎駿」たちも、最初は観客だったわけで、観客たちも潜在的な継承者なんだと思うんです。宮崎駿の『君たちは~』は、最後に13個の石を積んでそれが世界を支えているという設定になっています。あれは『まぼろしの白馬』(エリザベス・グージ著、石井桃子訳で岩波現代文庫に収録)という児童文学にそういう設定があり、そこからとっているようです。個人が世界を調和させるような祈りの儀式をやっているんですね。
 なんか『すずめ』っぽいですが、でも世界を穏やかにすることは、宮崎が作品でやろうとしてきたことなんでしょうね。大叔父はそれを託すんだけれど、主人公はそれを継がない。でも石を1つ拾って持って帰る。「どうせ忘れる」というアオサギの台詞がありましたけど、言うだけ言ってやるかやらないかは相手が決めるし、やっぱり一部しか伝わらない、というのは、後継者を作ったり何かを伝えようとするときの現実なんだと思うんですよね。それは、観客に何かを手渡そうとするときもそうなんだと思うんですよ。
 児童文学などがそうですけど、読者や観客は無意識にメタファーや寓意を受け取るように作られています。『ポニョ』を見て津波や災害の話だと本気で受け取る子どもは少ないと思うし、そういう匙加減で作られている。学生にジブリを見せても、みんな主題の裏にあるものなんて分からないで観て、それで楽しんでいますよ。それは読解力がない、ということだけではなくて、それでいいんだ、そういう伝え方をするしかないこともあるんだ、という覚悟を持って作っているということなんだと思うんですよ。バックグラウンドの、無意識の部分に仕込めばいい。宮崎駿自身も、3歳、4歳ごろの経験はうっすらとした記憶に残って、それが人生に絶対に影響するはずだと言っているので、自分の映画がそのように機能することを期待している部分もあると思う。ある部分だけでも、無意識のレベルで、ある種、散種する形でいいと思っているのではないかと思います。それは、観客というか、大衆に対する絶望に裏打ちされた上での、諦念でもあるのでしょうが。
 
杉田 戦後日本の劇場用アニメーションは、どちらかと言えば腕のいい中小企業の職人集団とその親方をモデルとしてきた面があるので、それが今、新世代の感性によって批判されつつある。そういう感じに見える。たとえば宮崎駿の新作のたびにNHKでドキュメンタリー番組が放送されるけど、宮崎の態度はハラスメントではないのか、という批判がしばしばあります。
 あるいは今回の『シン・仮面ライダー』については、ドキュメンタリー番組を観た人たちから、かなり激しい批判がありました。あれはハラスメントと何が違うのか、と。僕も正直、ちょっとキツイなと思った。それは『シン・仮面ライダー』という作品のネガティヴな面とも無関係ではないように見えた。ある意味で庵野さんには、観客や批評を求めず、信者や趣味の一体化だけを要求している、という側面が依然としてありそうに感じた。生身の人間の身体や心を無化し、偶然や奇跡を待ち望む、という姿勢はカルト教祖のそれにも確かに近い。それだけだとも思わないけれど、そういう側面があることも否めない。
 しかし僕はその一方で、宮崎駿くらいの過酷さ、厳しさならOKではないか、とも思ってしまっている。自身がNPOや共同事業で働いていた経験からも、自己犠牲的に燃え尽きるほどの共同によって限界を超えていくこと、そこでは抑圧があったり感情のぶつかり合いがあったりもするけど、やっぱりそこからしか出てこない可能性があった。正直、そう思ってしまっている。感性的に古いと言われればそれで終わりなんだけど。
 そしてそれも恣意的な線引きなんですよね。宮崎駿のそれは許容範囲だけど庵野秀明のそれはアウトだとすれば、何が違うのか。境界線が我ながら分からない。すべてがコンプライアンスの範囲内にはおさまらず、お互いが限界を超えて自己犠牲し協働的な化学変化を起こすことが重要な局面がある、と経験的にも考えるけれど、それは良い作品や仕事のためなら他人を人間扱いしないでもよい、独善的、ハラッサー的、教祖的に振る舞ってよい、という話ではないだろう、とは思うけれども。
 やっぱりそういう側面は確実にアウトだし、それは当然そうだよなとも感じてはいる。そして評論や批評は、そういう現実に対応しきれていない感じがする。そういうのを許容してしまう姿勢が、様々なジャンルの日本の男性批評家にハラスメントが多い要因の一つでもあるはずで。
 
藤田:そこは難しいところですよね。前提として、映画を作るのは、集団作業なので、構造的にファシズム的になりやすいところがあると指摘されていますね。その上、この二人とも、こだわりが強くて、仕事に没入するタイプですからね。そして、ある種の「危機」における、限界を超えた力の覚醒のようなものを利用している才能だと思うんですよ。火事場のバカ力を恒常化させたというか。ある種、そのような生命の力と創造性を引き出す技術と、作風が相関している作りですよね。それは、コンプライアンス的な秩序が保てなくなるような危機の状態を前提にしている部分があると思いますが、普通はそれについていけませんよね。ある種の、やりがい搾取とかバーンアウトが避けられないわけですよね。しかし、ある種の日常が継続できない危機を描くという二人の作風とも不可分な気がするので、それをコンプライアンス的にフラットにすればいいとも思えないですね。もちろん、暴力や搾取や過重労働はなくなったほうがいいわけですけど、こういう才能の活かし方と両立するより良いスタッフワークとか、働き方を発明できれば良いのに、と思いますね。
 映画業界は、最近は体質改善に取り組んでいますが、庵野秀明の現場は「奴隷的」や「カルト教祖」というわけではないと思います。確かに過酷でしょうけど、自分以外のメンバーのアイデアをたくさん集める作り方をしていて、脚本を書くときに女性のスタッフに意見を聞いたりとか、ある意味では「民主的」でもあると思います。いっぱいアイデアを提案させられて、庵野秀明を満足させないといけないのは辛いですが、現実の民主主義だって、学者や役人がいっぱい「提案」しても、ほとんど却下されて採用されないですしね(笑)。それに、それは作家や監督に対して、観客が要求していることでもあるわけですよね。
 
杉田:まあその「民主的」なところがかえって(独裁的、ではなく)「ファシズム的」なのかもしれないけども……。先ほどのAI的なものの話でいえば、新海誠が『天気の子』の時に、川村元気と一緒に、観客の感情を数値化してコントロールするという試みをして、話題になりましたね。それをある種の洗脳と呼べるのかは別として、集団感情のコントロールへ向かう欲望は、庵野さんに限らず、あるんでしょうね。
 あるいは宮崎駿が、人工知能で動きを学習させたCGを見せた川上量生に対して、「極めて何か生命に対する侮辱を感じます」と批判した件が話題になった。でも、あれはちょっと変な話で、宮崎駿はそもそもモダニズム的な感性の持ち主だし、断片に生命を吹き込むというアニメーション自体がもともと「生命に対する侮辱」を孕んだものですよね。そこは常に逆説がある。宮崎さんはその自己矛盾にすごく自覚的であり続けてきた。だからあれは単純な川上批判には思えない。作品の中にCG的な不気味さを取り込んでもきたわけだし。『もののけ姫』のダイダラボッチとか。
 
藤田 集団感情のコントロールとか、工学的に計算して人間の情緒を操作するとかは、多分普通にITのプラットフォームがやっていて、AI時代以降はビッグデータを使って、精緻化していくだろうと思いますね。そういう社会になってきていて、人間もそれに適応して機械のようになっている感じもしますが。宮﨑作品は結構CGを使っているんですよね。でも、ジブリで色々実験を繰り返して、やっぱり「手描き」じゃないと出ない生命感があると思ったんじゃないでしょうかね。
 
杉田 そもそも、人間と機械の境界線がはっきりしないような世界観を作ってきたわけです。宮崎作品に固有の、温かみのある機械とか。『ナウシカ』の巨神兵とか『ラピュタ』のロボット兵にもおそらく何らかの感情の進化が見られるし、王蟲もそもそも人工生命体でした。腐海という自然は、鉄やセラミック、放射性物質も含んだ生態系です。AI的テクノロジー全否定派の「老害」宮崎駿と、AI肯定派の若い感性、という単純化された構図は成り立たないのではないかな。
 

『天空の城ラピュタ』のロボット兵。スタジオジブリHPより
前半でもふれられた『ナウシカ』の巨神兵。スタジオジブリHPより


藤田 でも、押井守のように機械と人間が混ざり合った「サイボーグ」はほとんど出さないし、生命や人間の境界線が曖昧になっていくということ自体は主題化しないですよね。AI時代の未来都市、みたいなSF的ビジョンも出てこないし、インターネットやスマホすら出てきていないんじゃないでしょうか。それは、やっぱり現代じゃ不自然なんで、「拒否している」としか言えないと思いますよ。『ナウシカ』マンガ版の後半と、『耳をすませば』(1995年公開)の辺り、つまり90年代半ば頃には、杉田さんが仰る可能性は結構検討されていたと思うんですけどね。
 
杉田 宮崎さんの中には人工「生命」への両義的な感情はあるけれど、それは人工知能的なものへの関心とは違う、ということかな。
 
藤田 労働論について、宮崎駿は自分の作品に描いていますよね。『紅の豚』はスタジオのメタファーだと言ってます。『千と千尋』の油屋もジブリもメタファーだと言ってます。 『魔女の宅急便』はマンガ家志望の女の子をイメージしたとか。『ハウル』は、仕事し過ぎて体調がおかしくなったり精神が不安定になるような労働の寓話なんだろうなと個人的には感じます。あれは働き方改革的なものの必要性を謳う自己批判なのでは、城もボロボロになって壊れていきますしね。『風立ちぬ』も仕事に没入し過ぎです。実際家庭を無視している働き方をしていて、奥さんには、教育を語る資格はないと言われているようですね。あれだけ「子供のため」と言いながら、自身のお子さんに対しては、いい父親ではなかったようですね。そこはクリティカルポイントの一つかもしれませんね。

『千と千尋』の油屋台所。スタジオジブリHPより
『ハウルの動く城』の城。スタジオジブリHPより


 
杉田 家族関係は僕にはちょっとわからないけど、いずれにせよ難しいよね。『紅の豚』の女性中心の兵器工場、『もののけ姫』のタララ場がそうであるように、女性や障害者・病者が参加しうる理想化された労働集団を描いたら、ネオリベラリズム的でポストフェミニズム的な労働現場――ある種のファシズム的な総動員体制のようなものになっていくのだとすれば。ジブリという組織は具体的にどうだったのか、すでに色々と内部からの証言もあるようですけれども。
 

『紅の豚』の女性中心の兵器工場。スタジオジブリHPより
『もののけ姫』のタララ場。スタジオジブリHPより


藤田 そういう「理想と現実」のままならなさを描いてきた作家ですよね。一応、アニメーターたちを正社員にしたり、労働環境をよくしたりしようと努力をしてきた。でも確かに過酷な労働環境であることは間違いない。
 
杉田 さっきも言いましたが、共同作業を通して自分の個としての限界を超えた創造性が発揮される、ということを否定しきれない部分が自分にもあります。そこは完成の古さとして批判されるかもしれないけれど。
 
藤田 ある部分は新自由主義的な考え方と似てますよね。限界まで追い込んだら創造的な力が目覚めるんじゃないか、若い者を貧乏にしたら創造性が目覚めてイノベーションとか起業に向かうみたいな考え方は、竹中平蔵イズムに接近しますよね。新自由主義を推進したある経済学者が、反省の弁を述べていて、「一般の人は、それほど創造的ではないということを知らなかった」と言っていましたが。アメリカの経営者とか企業家も猛烈に働くようですが、そのような稀なクリエイティヴ・クラス的な人間と、それとは異なる資質の人間とは、それぞれ違う働き方が適しているんだろうと思います。
 
杉田 ジブリ内での直弟子の監督という意味での後継者は育たなかった、とよく言われます。しかし庵野さんにしろ、新海さんにしろ、細田さんにしろ、他にも様々に、間接的に宮崎さんの魂が「継承」されてはいますよね。藤田さんはそこをどう見ていますか。
 
藤田 生物学的な遺伝子も継承している宮﨑悟朗さんとか。あるいは、スタジオポノックの米林宏昌さんも直弟子ですが、いかがでしょう。『千と千尋』のカオナシのモデルだなんて言われていますが。『借りぐらしのアリエッティ』(2010年公開。以降『アリエッティ』と略)は僕は結構好きなんです。あれは宮崎駿が絵コンテを作ったり脚本を書いたりして、米林さんを監督として送り出したわけですよね。『思い出のマーニー』(2014年公開。以降『マーニー』と略)も宮崎駿が好きな原作からの企画ですよね。


 その後、ジブリではなくなり、独立して作った『メアリと魔女の花』(2017年公開。以降『メアリ』と略)は、ジブリらしさの中に留まり過ぎていて、宮崎駿に対する批判があまりない感じがちょっと物足りなかったです。魔法が、サブカルチャーのようなもので、それに頼らないで、地に足を付けて生きなさいよ、っていうメッセージに、オリジナリティがない。もっと、現代に自分が作るからこそ、っていう部分はないのかって、苛々してくる。いっそのこと、カオナシを主役にした『千と千尋』の続編を作るぐらい、大胆なことをやってほしい。

杉田 『アリエッティ』は割と好きだったな。宮崎駿モデルっぽい家政婦が出てきましたね。近代的な私的所有や囲い込み(エンクロージャー)の権化のような感じで。それに対して、アリエッティたちは、ある種のアナーキズム的な原理で対抗していく。「借りる」とか「相互贈与」によって。ある種のジブリ批判、宮崎駿への反逆のような側面が確かにあった。
 『君たちは~』と比較するなら、本当は『マーニー』だろうけれど、今はあまり細部を思い出せない。観直してみます。『メアリ』はジブリから独立して起業して、スタジオポノックで作ったわけですよね。『魔女の宅急便』への返歌のような作品でもあった。うろ覚えだけど、キキが魔法の力を回復するのに対して、メアリは最終的には魔女のパワーを使わなくなる、魔法の継承を放棄する、という話じゃなかったかな。
 
藤田 そうですね。地に足の付いていない、科学みたいなニュアンスも魔法にはありましたね。
 
杉田 ジブリ的なものの魔法を捨てる、という決意表明だったのかな。当時の文脈では、反原発のメタファーでもあったと思う。けれど、実際の『メアリ』は正直、めちゃくちゃ劣化ジブリのように見えた。脱原発自体が宮崎駿の思想そのものではなかったか。ジブリの二次創作で失敗したという点では、新海誠の『星を追う子ども』っぽいというか。それはどうだったんだろう。
 とはいえ僕の観測範囲は本当にせまいので、ちゃんとしたアニメ批評は全然できないんです。そもそも、「宮崎駿とその子どもたち」みたいなフォーマットで考えようとすること自体が、致命的に古いのでしょう。僕自身のことですが。

◆未知の状況を生きるために必要なものは何なのか


――「ポスト宮崎駿」という構図そのものが、いかがなものか、ということでしょうか。
 
杉田 そうですね。圧倒的に古いし狭いと思いますよ。まあそれこそ『アリエッティ』の言葉でいえば、僕は早晩「ほろびゆく種族」の側の人間なので……。もちろん藤田さんはかなり違う目線で見ていると思いますが。
 
藤田 一人一人をちゃんとリスペクトしよう、ということを前提としていえば、しかし、アニメ映画を国民的な大ヒットにした宮崎駿の主題や内容をどう継ぎどう批判するのか、っていう問題は確かにあるんですよね。それはその時代の日本の課題とも不可分に機能したりして。「そういう作家」がこれからも出続けて、何を表現していくのか、という問題系においては、「ポスト宮崎駿」は意味のある概念だと思います。
 
杉田 そういえば、日本映画の歴代興行収入ランキングを観てみると、びっくりするほどアニメ中心ですよね。ずっと宮崎駿が強かったけど、近年は新海誠がそれに食い下がってきた。しかしそれ以外で目立つのは、ごく最近では、「週刊少年ジャンプ」原作の作品がすごく強い。『千と千尋』をぶち抜いて圧倒的な歴代一位になったのは『鬼滅の刃』の映画だし、あとはここ数年の『ワンピース』『スラムダンク』『呪術廻戦』ですよ。つまり「ジャンプ映画」がめちゃくちゃ強い。



 もちろん映画の興行システムその他の変化が確実にあるから、単純な比較はできないかもしれない。それでも「ジャンプ映画」の強さは異常に見える。しかしそれらの作品を、ほとんどの観客は、作家主義的に、監督の名前で観たりしないですよね。それは宮崎駿や庵野、新海などの作家名がブランドになることとずいぶん違う。井上雄彦はちょっと違って、特別な「天才」だと思うけれども。こうした流れに対しては、新海や庵野、細田、あるいは幾原邦彦や湯浅政明を論じるのとは根本的に異なる批評言語が必要なのでしょう。というかすでに論じられ方もだいぶ変化してきている。僕はそれを追えていないけれど。

藤田 今はネットではアニメ作家を中心に語られやすいですが、本当は作家主義的な語り方をされるアニメの方がむしろ例外なんでしょうねえ。
 たとえば大長編『ドラえもん』を長年監督してヒットさせてきた芝山努監督とか、職人的に思われてきた監督も、個人的には研究や評論をされるべきだと思いますけど。映画作りは、職人的・工業的な集団創作の側面があるのがむしろ普通で、それを作家主義的に「敢えて」語るのを、『カイエ・デュ・シネマ』の人たちがやっていたわけですが。それはともかく、「ジャンプ映画」を分析するには、IPビジネスとか、そういう観点も必要になってくるんでしょうね。

杉田 『クレヨンしんちゃん』とか『名探偵コナン』もですかね。ディズニー映画やピクサー映画も監督単位で観る必要もあるけれど、そこまで作家主義が強くはないですよね。
 分業的な集団芸術であることはアニメーションの本来の形だろうし、そうするとやっぱり、スタジオ地図のような分業システムに段々向かっていくのかな。それとも何か異形のハイブリッド的なものなのか。大資本の分業体制とインディーズ的な個人作家性を共存させるのが戦後以降の日本アニメのスタイルだ、みたいな話もありますが。
 
――オチとしては、『君たちは~』が宣伝を一切しないというのは、宮崎駿だからこそできたし、同時に宮崎さんの作家性を際立たせるものということでしょうか。
 
藤田 『シン・仮面ライダー』も予告編は出しましたけど、スタッフや内容も全く告知してませんでしたね。それを思い起こしました。ある意味、監督の名前で人が呼べて、熱量の高い作品を求めるファンで、かつ未知のものに出会う喜びを期待する観客を狙った戦略なのかなぁ。
 
杉田 『THE FIRST SLAM DUNK』(2022年公開)もあまり宣伝はせずにヒットしましたね。『君たちは~』ほどには情報を隠したりはしていなかったけれど。


――『君たちは~』の公開日が7月14日でフランス革命の記念日です。あえてそれを意識したのであれば、革命礼賛説もあります。もう一度フランス革命に戻れと言わんとしているのではないか、と。
 
杉田 どうなのかな(笑)。ちょっとわかんない。
 
藤田 暗に仕込むこともありえなくはないとは思います。正直に何かを言えない時代に入ってしまうかもしれないという認識も示していますからね。
 
――天皇制批判とも言われますね。
 
杉田 その辺の政治性も含めて、僕は前回言ったように、漫画『ナウシカ』をもとにしたテレビアニメ版を期待して待つことにします。間もなく滅びていく側の人間として。
 
藤田 天皇制批判は、『もののけ姫』で、ミカドと名前を出してあんなに大々的にやったのに、恐れていたような右翼からの攻撃はほとんどなかったと宮﨑さんは書いていましたね。
 宮崎駿は、良くも悪くも大きな存在だと思います。左翼思想からアニミズムに移行することで、日本における政治思想が美的感性や無意識レベルの宗教観と結びついていることを露呈させ、その問題にアニメーションで介入していった作家だと捉えられるでしょうね。
 生命やテクノロジーへの態度は、いわゆる「右左」「保守革新」とも重なりつつも、またちょっと違った政治的な感性や対立を生み出してきた問題で、それへの感覚を随分と醸成したんじゃないかと感じますね、「国民作家」ですからね。アニメーションという運動性のメディアを用いてアニミズムの感覚をアップデートしながら、自身の作品の美的効果なども批判的に検討し続ける……。
 常に言っていることが正しいとは思いませんが、戦後日本のサブカルチャーの果たしてきた機能を体現するような作家であり、政治と芸術と宗教とが混然一体となっているゾーンがよく分かるという感じもします。この作家と対決し、継承するところは継承し、批判するところは批判しておくことが、今後の日本の行方には影響しそうな気がしますね。やっぱり、批判的に継承する覚悟を決めて、自由に自分の意志で己の道に乗り出した庵野秀明や新海誠の作品は立派だし、堂々としているし、商業的・芸術的な成功もしているので、僕らも新しい時代を生きるに当たって、そうあるべきなんだと思います。
 今まで誰も生きたことのない未知の状況を生きるために必要なものは何なのか真剣に考えて、それを人に伝える姿勢でエンターテインメントを作った者こそが、結局は経済的な見返りも得ているわけで、そのことから多くの人が色々なことを学んでほしいですね。

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