ひとりの時間
すべての雪が溶けた。
春が来たと思って私は分厚いコートをしまった。長袖の肌着にシャツ、スキニーの下にはタイツを着ない。薄手のジャケットに、一応マフラーを巻いたけれど、足元はくるぶしの出たソックスにスニーカー。
結果として、その格好は寒すぎた。地元の人でさえまだコートを着たり、ブーツを履いていたりする。
私は全身で春を感じたかった。あたたかな日差しを手の甲や足首に浴びたかったのだ。周りが着膨れしていても、私は身軽な格好をしている嬉しさ。
それは、雲がいい場所に動いて太陽が照るときだけで、曇るとすぐに冷えた。日が暮れかかり帰るころには、カバンにの奥に入れていた手袋をはめて、急ぎ足で駅へ向かった。
電車に乗る。もう何回も、夫とともに往復している区間だ。いつもは夫が携帯で時刻表を調べて、彼についていけばよい。私は、発音の難しい横文字がずらりと並ぶ電子掲示板をよく確認しないで乗り込んだ。
発車してすぐに、間違えたことに気付く。車内のWi-Fiにつないで調べると、全く逆方向だ。それに、座席の向きと反対側に電車は進む。何もかも不愉快で、夫と一緒ならこんなことにならなかったのに、と思う。
どうしてちゃんと確認しなかったんだろう、恥ずかしがらないで駅員さんに聞けばよかった。
私は文庫本を出して開いた。パウロ・コエーリョの『11分間』。ある女性が娼婦になり、ほんとうに愛することと、快楽のための性愛のあいだにある大きな違いに気づく話だ。物語は終わろうとしている。
車内に響く、若い男の人の電話の声。
反対向きに流れる平坦な土地。
たとえ電車を間違えて、時間をかけて目的の場所に行くことになっても、ひとりで外に出るのは良い。
喋って気を紛らわせることができないから、自分のほんとうに考えたいことを考えられる。
達成したことを認めながら、これから挑むことにも勇気を持つこと。
生活の中の不便さを楽しむことで得られる、満足感の大きさ。
人は完全ではなく、それで良く、だからこそ他人がいるということ。
毎日をこんなふうに生きなくてもいい。たまにこういう日があれば、自分と世界を見つめることができる。
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